そう語るのは、がん遺伝子治療専門のクリニックを銀座で営まれている濱元誠栄さん。
エリートだらけの進学校で味わった劣等感、「日本一忙しい」病院でドラマのように奮闘、患者に寄り添う医療に取り組む日々。
そうした経験から得られた価値観や、島の人間の誇り、次世代のメッセージを教えていただきました。
(更新日:2018年7月23日)
<ご案内>
その人の人生だけでなく、命も救えたら
―現在のお仕事について
東京、銀座でがん抑制遺伝子を用いたがんの治療と予防を専門に行っています。
外科医として多くのがん患者さんを治療してきたこれまでの経験に基づき標準治療(手術、抗がん剤、放射線)の弱点を補うことができる遺伝子治療を世の中に広める事が目標です。
患者さんやご家族と共にじっくり治療と向き合う事を信条としており、生活も含めたトータルケアも行っています。
―医師を志したきっかけは
元々人の人生に影響を与える仕事がしたいと教師に憧れていました。
中学2年の時に体調を崩して気持ちも落ちていた時にある医師が親身に対応してくれて、とても頼もしく感じたんですね。病気を治すだけでなく患者の気持ちまで治してくれる姿に感動しました。
同じく人の人生に影響を与えるなら命も救えたほうがいいと考えて医師を志すようになりました。
ちょうどその頃通っていた塾に本土出身の優秀な子が入ってきて、ダントツで1番になったんです。彼は本土の有名私立高校を志望していました。
私も本土の有名私立高校が医師への近道だと考えていたので、彼に負けないよう必死に勉強しました。そして鹿児島県にあるラ・サール高校に合格することができました。
その高校を選んだ理由として他の有名私立校と比べて学費が低めだったことと、沖縄に近いということがあります。
当時は東京や大阪の大都市は遠い上に怖いという先入観がありました。同じ九州で一番沖縄に近い鹿児島は他県よりも気持ちのハードルが低かったのです。
エリート校での挫折と劣等感
―鹿児島での生活は 男子校で寮生活。
部屋も4人部屋というなかなかの環境でしたが生活自体は楽しかったですね。でも勉強はものすごくハードでした。
入学式の日にある先生から「俺の授業は3分の1がついてくればいい。ついてくれば東大に行かせてやる」と言われ衝撃を受けました。周りも東大、京大を目指すような全国各地から集まった優秀な生徒ばかり。授業についていくのに必死でした。
宮古島ではトップを争う成績だったのですが、入学して最初の実力テストは下から数えて3番目という悲惨な状況でした。それでも何とか頑張って卒業までには中位集団に入ることができましたが、本当に上には上がいるなと痛感しましたね。
落ちこぼれないよう必死で常にプレッシャーを感じており、帰省から戻る飛行機の中では毎回憂鬱な気持ちでした。
大学の第一志望は九州大学でしたがセンター試験のスコアが足りず、鹿児島大学医学部に進みました。
ラ・サールは東大や京大を筆頭に旧帝大の医学部に合格する連中がゴロゴロいて、学校側もそれ以外の大学を受ける学生には落ちこぼれの烙印を押す風潮があったので「ああ、自分は鹿児島大学しか行けないレベルなのか」という劣等感がありました。
入ってみると「やっと念願の鹿大に入れた」とか「2浪が報われた」という学生もいて、ラ・サールが特殊だったんだなと感じました。
極限の世界でものすごい人たちと勉強して競争のプレッシャーの中で生きてきたので、入学後の解放感はそれはそれはすごかった (笑)。
その反動で教養課程の初めの1、2年生の間は全くと言っていいほど勉強しなかったです。その代わり高校時代から打ち込んでいた柔道の部活動に没頭していました。
へき地医療を志望
―医師への第一歩は
大学後半になり専門分野を含めた進路が決まり始める頃、私は高校生の頃から興味を持っていたへき地医療を志しました。
元が田舎者なので患者さんとおしゃべりをしながらゆっくり診療がしたいなと。
大病院での待ち時間の長さと診療時間の短さというジレンマもあって、自分ならば患者さんとじっくり膝を突き合わせて地域全体と関係を築く医療をしたいと思っていました。
当時はへき地医療を志す学生はほぼ皆無で、各専門科の医師や先端医療を目指す同級生からは「へぇー」と奇異な目で見られました。
それでも諦めきれずにいたところ柔道部のOB会で大先輩の先生から「面白い先生がいるから行ってみなよ」と鹿児島の離島の診療所で働く元外科医の瀬戸上健二郎先生を紹介されたんです。
その方は20年以上かけて島の人達と関係性を築き上げ、住人全員の健康状態を把握し治療をしていて、漫画「Dr,コトー診療所」のモデルにもなった方です。
手術室も古い最小限の設備しかないのに、島のお年寄りたちが「手術をするなら鹿児島本土の病院ではなく瀬戸上先生に」というほどの関係性はすごいなと圧倒されました。
これこそ私が目指していたものだと確信しました。
ドラマ「ER」の様な超多忙な日々
―外科医としての日々は
でもへき地医療を担うには1人で何でもできないと務まりません。そこで緊急手術にも対応できる外科医を選択しました。
大学卒業後に研修医として最初に勤務したのは沖縄県立中部病院。ここで経験を積めば何でも対応できるというぐらい日本一忙しい病院で、産婦人科も含め全科をローテーションし、様々な疾患を経験することができました。
まさにアメリカのドラマの「ER」の様な現場で、私たち研修医はエレベーターで移動するわずかな時間でも立ち止まると眠ってしまうほどの忙しさでした。
救急外来では1年間で1000を超える症例を診ていました。 2年後に先端医療も学んでみたいと思い東京の杏林大学病院にも勤務しましたが、そちらは研究や学会が中心で、“野戦病院”と“アカデミー”の大きな差に驚きました。
医学の発展のためには研究や学会ももちろん大事なのですが、自分自身は現場で臨機応変に対応できる医師でいたいと再び、沖縄県立中部病院に戻りました。
へき地医療のジレンマ
―再上京のきっかけは
沖縄県立中部病院で2年勤務したあと宮古島の県立病院で5年半勤務していたのですが、ほぼ休み無しで働いていたこともあり、正直、外科医に疲れてしまいました。
年々医療技術も向上し、情報量も増えて、いまやへき地であっても相応の治療を求められる時代。医療訴訟が増えている事もあり、もうへき地にいて医療を全うする時代ではないのではという思いを持つようになりました。
ならばそれに代わる最先端医療は新たな希望となるのか?と色々と情報を集め始めたところ、「再生医療」という新しい分野を知りました。
皮膚の細胞を培養して戻すという主に美容分野で注目を浴びている医療で、運よく東京のクリニックの求人が見つかったこともあり、思い切って新しい分野に飛び込む決意をしました。
がん治療も“小さなへき地医療”
―現在取り組んでいる事は
再生医療クリニックで院長を務めるなど中心的な立場で働いていたのですが、そんな中でがんの遺伝子治療と出会いました。
遺伝子が壊れることで発症するがんに、がん抑制遺伝子を投与することで正常細胞ががん化するのを防ぐことができるだけでなく、すでにできてしまったがん細胞を自死に導くという画期的な治療法です。
この治療はがんで苦しむ人達の新たな希望になるのではと、今年7月にがん遺伝子治療専門のクリニックを銀座に開院しました。この治療は患者さんへの身体的負担も少ない上に抗がん剤や放射線治療と併用すると、ものすごい効果を発揮します。
大病院では十分な説明がされないまま治療されて医療不信に陥り、標準治療が終わると見放されたと感じることがあります。
多忙すぎる日本の医療システム上、このようにフォロー体制が整っていないという現状があり、“がん難民”と呼ばれる人達が沢山生まれています。
私はそういう人達の不安を解消するべく、カウンセリングには可能な限り時間をかけています。そういう意味では、地域の人達の診療に時間をかけるへき地医療と同じ感覚です。
私にとって銀座のクリニックは「小さなへき地」だと思っています。
東京で勇気を持って行動できるか
―東京はどんな場所ですか
やはり東京には人と技術、情報が集まります。東京に出てきた事で見識が広がり、現在の最先端治療を学ぶことができました。
当然、相応の対価や労力が必要ですが、求めれば何でも手に入る場所。競争も当然激しいですが、逆に東京を利用してやるぐらいの気持ちでいたほうが良いと思います。
苦労したことは満員電車ぐらいですね。情報や機会は沢山ある街なのでそれを見つけるかはその人次第。あとは勇気を持って行動できるかだと思います。
島の人間の誇りを忘れないで
―沖縄の若者にメッセージを
沖縄の子達には外の世界を見てもらいたいですね。目標につながっていれば別に東京である必要はなく、外国でもいいと思います。
今はインターネットであらゆる情報を手に出来る時代なので、自分が没頭できそうなものをまずは見つけることですね。
でも何よりも大切にして欲しいのは、島の人間としての心。
厳しい競争の中でウソをついて人を蹴落としてまで上に行くという世界を見てきました。私はそういう人間になりたくなかった。
正直に生きるという島の人間としての誇りがあったから、辛い時間を耐えることができたのだと思います。
夢を実現させるためには様々な試練や周囲からの無責任な言葉に出会うこともありますが、最後まで自分の可能性を信じてあげてください。
濱元誠栄(はまもと・せいえい)
1976年宮古島市生まれ 宮古島市立久松中学から、鹿児島県のラ・サール高校に進学。鹿児島大学医学部を経て、沖縄県立中部病院で研修医として勤務。杏林大学で外科の最先端医療を学んだのちに、再び沖縄県立中部病院、沖縄県立宮古病院、宮古徳洲会病院に外科医として勤務。2011年9月に上京しRDクリニックで再生医療に従事した後に、18年7月にがん遺伝子治療を専門とする銀座みやこクリニックを開院した。
【HP】https://gmcl.jp/
濱元さん、お話ありがとうございました!
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