「知識よりも体験を。好奇心を忘れずに」キッキィさんの仕事論(ダンスパフォーマー・俳優)

キッキィさん仕事論

そう語るのはダンスパフォーマー・俳優として幅広く活動されているキッキィさん。

空手でインターハイ全国優勝、ダンス日本一、「WORLD ORDER」初代リーダーなど素晴らしいキャリアをお持ちです。

その裏にあった様々な苦労や経験してわかった東京という街、次世代へのメッセージを教えていただきました。

目次

裕福な生活からどん底へ

キッキィさん

―現在のお仕事について教えてください

ダンスパフォーマーとして国内外のステージに立つほかCMやテレビ出演、アーティストへの振り付け指導、俳優として映画や舞台に出演しています。

https://www.youtube.com/watch?v=grx_L8cExAM

―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?

両親がカメラ事業で成功し幼少期は戸建てで何不自由なく暮らしていました。 毎年、家の車が変わるなどかなり裕福な生活をしていたと思います。

沖縄県内では空手の名門校だった浦添高校空手部で劉衛流の師範、佐久本嗣男先生に師事して空手漬けの日々でしたが猛稽古の甲斐もあって高校3年のインターハイで沖縄県勢男子初の型で全国優勝しました。

佐久本先生から「常に創意工夫を忘れるな」と厳しく教えられた事が今でも生きている気がします。物事を色んな角度で見られるようになりましたね。

優勝した事で全国の大学からスカウトが来ましたが、当時の僕には県外に行くという選択肢はなくて名桜大にスポーツ推薦で進学を決めました。

でもその時に父親の事業が傾いてしまい家を差し押さえられる事態になり、家族からはせめてお前だけは大学に通いなさいと言われましたが、大学を辞めて働きに出ている兄の姿を見ていると俺だけという訳にもいかず、入学3ヶ月で大学を辞めてアルバイトを始めました。

高校の先生や空手の関係者は状況を理解してくれていましたが精神的にはきつかったですね。

失意の中で出会ったダンス

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―上京のきっかけを教えてください

急転直下、裕福な一戸建てから小さなアパートでの暮らし。僕もバイトを掛け持ちしながらの生活で気分的にもあまり家に帰りたくないわけですよ。

ある時閉店後のショッピングモールでストリートダンスをしている人達を見つけて、運動が好きだったこともあり見ていたら「良かったらやってみる?」と声をかけられた事がダンスの世界への扉を開いてくれました。

ダンスを踊っている間は日々の生活も忘れることができてそこからはどんどんのめり込んでいきましたね。

もっとうまくなりたい気持ちが強くなって海外のダンサーの映像を見たりしながらいつか自分もこうなりたいと思っていました。

その後神奈川の自動車工場で期間労働をしていた時に寮で仲良くなった同期と東京と沖縄を遊びで行き来するようになりました。

働きながらダンスをする僕の姿を同期が見ていて「東京に来ればもっとチャンスがあるかもよ」と上京を勧めてくれたんです。

仕事や住む所まで世話してくれて東京での生活が始まりました。それが25歳の時でした。

離れて暮らしていた兄も「俺たちは一度どん底を見ているからあとは上がるだけだ」と背中を押してくれたことも大きかったですね。

チャンスを手繰り寄せる

―上京後の生活について、またどのようにしてキャリアを形成されましたか?

イベント設営会社でアルバイトをしながら夜は駅前のスペースでダンス練習をする生活でした。でも目標があったので全然辛くはなかったですね。

当時はインターネットが発達していなかったので駅で知り合ったダンス仲間を通じて誰がうまいとか情報を集めて実際に会いにいくこともありました。

自分なりに参考になる部分があれば直接動きやテクニックを聞いたり教えてもらったりして試行錯誤を繰り返していました。

そこからショーに出てみたいという欲求が高まってダンス仲間5人で小さなダンスチームを結成しました。名前は「無名(うーみん)」。まさに当時の自分達そのものですね。

そこから小さなコンテストで優勝を重ねるうちに、どうせならトップを目指そうということで全国コンテスト「JAPAN DANCE DELIGHT」に出場しました。

すごい人達が沢山集まる日本で一番大きなコンテストですが、僕らのポッピングというダンスカラーが異色だったのか、初出場で準優勝。翌年の大会はメンバーを入れ替えた4人でチーム名を「G’OLD」として出場し、見事日本一に輝くことができました。

30歳を目前にして1つの大きな結果を出す事ができたのは大きかったと思います。

この年に深夜のダンスバラエティー番組「少年チャンプル」がスタートしてさらに追い風となってくれました。

自分達ではそこまで影響を実感していなかったのですが、テレビ出演を機に名前が広がって色んなところからお仕事を頂くようになりました。やはりメディアの力は大きいですね。

ユニクロのCMを頂いたことで海外アーティストのミッシー・エリオットのPV依頼も入り、一方では物まね芸人のコロッケさんのロボットダンスの振り付けを担当したことで一緒に番組出演をしたこともありました。

僕がダンスを始めた頃はダンスをしている人達はあまりいなかったのですが、大きなダンスブームが来たと実感しました。

人気絶頂の中でも新たな挑戦に動く

―その後も大きな分岐点があったようですね

仕事のご縁で元格闘家の須藤元気さんからロボットダンスをモチーフにしたダンスユニットを作りたいとご相談を頂いて、初代「WORLD ORDER」リーダーとして活動することになりました。

最初は5人からスタートしてメンバーは7人に。メディアの露出もあって世界中からオファーを頂き、アメリカのマイクロソフト社でパフォーマンスをしたこともありました。

ユニットの看板は須藤元気さんですがダンスのまとめは僕がやっていました。僕の性格上リーダーは合っていた気がします。空手部でも主将でしたし、先頭でぐいぐい引っ張るよりも一歩引いて全体を俯瞰して指示を出すほうが得意でした。

これまでのダンサーファッションとは違い僕含めて全員が七三ヘアのスーツ姿だったので、誰も僕とは気付かない人もいましたけどね(笑)。

人気知名度が急上昇していた時期でしたが、僕の中で別の方向性というかやりたい表現が大きくなったので、4作品に出演したのちに脱退を決めました。

ソロとして活動するようになり芝居の世界に飛び込んだのもその時です。 演技に関しては勿論素人。難しいですけどもそれもまた表現の1つです。ダンスとはまた違った楽しさがありますね。お陰でダンスの幅が広がった気がします。

2017年には沖縄で開催された「世界ウチナーンチュ大会」のエンディングアクトで演出家の平田太一さんと共に空手の動きを取り入れたダンスを披露しました。

高校時代の空手経験がこんな所で役立つとは思いませんでしたね。空手の師匠である劉衛流の佐久本嗣男先生の前で披露した時は怒られるかと緊張しましたが、何度も「いいね!実にお面白い」と言って下さった時は本当に嬉しかったですし、今後の励みにもなりました。

そこからまたパナソニックさんの技術者の方と共同してプロジェクションマッピングとダンスをクロスオーバーさせる新たな試みに挑戦しました。

普通プロジェクションマッピングは建物など動かない物体に投影させるのですが、ダンサーである僕の体に仕掛けるもの。立体的に見せるには緻密なプログラムとダンスの動きが求められます。

何度も大阪の本社に通って試行錯誤を繰り返してようやく完成した時には感動しましたね。

その画期的なパフォーマンスはアメリカの人気オーディション番組「America’s got Talent」で披露することができ、僕らのパフォーマンスで会場が総立ちになったことは今でも忘れません。大きな自信を手にすることができました。

一方で嵐のリーダー大野智さんや物まねタレントのコロッケさんなど、アーティストの方々に振り付けやダンス指導をする機会も増えています。その分野のトップランナーと一緒にお仕事ができるのはとても刺激的です。

常に新しい表現を求めたい

―様々な縁がつながった東京という街は?そして今後の目標は

昔、漠然と東京に興味を抱いていた頃に兄に「東京はどんなところ?」と聞いたことがあります。兄から返ってきた答えは「自分の目で見て感じろ」でした。

今はその答えの意味が分かります。チャンスを求めて自分の足で動いたからこそ色んな縁がつながり今に至っていると思いますし、東京は動く者にチャンスを与えてくれる場所だと思います。

当然最初は苦労しました。ドライというか人との距離感が沖縄とは全く違うので。人付き合いは特に。

でも自分は高校3年の経験があったからこそ今に繋がったと思います。あの経験がなかったら今でも沖縄で悶々としていたかもしれない。親父は大変だったけども今はありがとうと言えます。

この仕事の一番の醍醐味はシンプルに見ている人に喜んでもらえる。言葉がなくても見る人の感情を動かすことができるのがダンスの魅力です。

僕は何か新しい事に挑戦してそれが広く認知されるとまた次に行きたくなる性分なので、今後もまだ人が見たことがない新しい表現を求めていきます。

知識よりも体験を

―最後に読者にメッセージをお願いします

今はインターネットを通して情報は簡単に手に入る時代ですが体験に勝るものありません。どうか知識よりも体験を増やしてほしいです。そして好奇心を忘れずにどんどん行動してください。

たとえ壁に当たっても必ず次の扉は開いています。探しつづければきっと見つかります。僕の場合もそうでした。

時間はかかるかもしれませんが決して諦めないでください。必ず次のチャンスは待っています。それが生きる醍醐味。きっとあなたも大丈夫です。

キッキィさん


キッキィ(本名・前山 清行)

1977年浦添市生まれ 浦添高校では空手部に所属。3年時のインターハイで個人型の全国優勝を果たす。 家庭の事情により名桜大を中退後、上京。アルバイトをしながらストリートダンスの経験を積み、ダンスチーム「無名(うーみん)」を結成。ダンスバトルの全国大会「JAPAN DANCE DELIGHT」に初出場で準優勝。4人組のユニット「G’OLD」として出場した翌年は日本一に輝く。 ダンスバラエティー番組「少年チャンプルー」(NTV系列)への出演を機に全国区のダンサーに。 元格闘家の須藤元気氏が結成したダンスユニット「WORLD ORDER」では初代リーダーを務め、2018年、アメリカオーディション番組「America’s got Talent」では、プロジェクションマッピングとダンスを融合したパフォーマンスで注目を浴びた。現在は舞台や映画を中心に俳優としても活躍するなど、その表現の場を広げている。

平良英之

キッキィさん、お話ありがとうございました!

キッキィさんにお仕事のご相談・ご提案がある方は、しまんちゅワークまで気軽にお問い合わせください。

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この記事を書いた人

東京沖縄県人会広報理事。「東京都沖縄区」代表。AFP、二級ファイナンシャルプランニング技能士、住宅ローンアドバイザー、証券外務員2種。1983年生まれ。宮古島市出身。

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