そう話すのは、会議などを可視化して円滑にサポートする手法「グラフィック・レコーダー」を提供する活動をされている松田海さん。
学生時代に難病を経験しながらも前向きな気持ちで乗り越え、自己実現していくまでのプロセス、そして若い世代へのメッセージを教えていただきました。
母子家庭で難病に。健康を失って見えたもの
―現在のお仕事について教えてください
会議やカンファレンス、勉強会などで交わされる議論や会話をイラストや図式、文字を用いて可視化しプロジェクト推進のサポートをおこなう「グラフィック・レコーダー」として東京を基点に活動をしています。
―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?
ダンスや運動が好きで活発な子でしたね。でも小学校6年生の時に両親が離婚して私と弟、妹は母の親権となりました。
母1人の収入になってしまったこともあり生活は苦しかったですが「母に心配をかけないように」と明るく色んな事に積極的に取り組むようにしていたこともあり、前向きな性格が作られたと思っています。
高校は卒業後にすぐ働けるように商業高校に入学したのですが、入学後間もなくして全身性エリテマトーデス(SLE)という国の難病指定を受けている自己免疫疾患を患ってしまって2ヶ月ほど入院を余儀なくされました。
治療を受けながら健康は当たり前のものじゃないんだなと痛感する一方で、やりたい事は健康で出来るうちにやっておこうと。その為にはお金が理由で選択肢が制限されてしまわないようにと強く思うようになりました。
投薬を受けて日常生活ができるようにまで回復。退院後は居酒屋やお菓子づくりの工場、ラーメン屋など時給700円程度のアルバイトをいくつも掛け持ちして月8万円から10万円ほど稼いで教科書や制服代、資格の検定料などに充てていました。
また当時は私の様な難病を持つ人達への就職支援体制が整っておらず、将来への不安も少なからずありました。
でもそういった窓口が無いのであれば、当事者の目線を生かして自分で難病者の就職支援のNPO法人を作ればいいのではと思うようになりました。
加えて、高校の部活動で企業と共同で商品開発して販売を行ないマーケティングに興味を持っていたことから人脈や知識を増やす為に大学進学を決めました。
幸いアルバイトで貯めた金額が100万円ほどあったので初年度納入金を一括で納めることができました。これは自分の中での大きな成功体験でしたね。
目標が見つかり、それを叶えるための費用を自分の力で払えたという経験がお金がないコンプレックスを打ち消してくれました。
会議を円滑に活性化させるファシリテーションとの出会い
―大学ではどのような事に打ち込んでいましたか?また上京のきっかけを教えてください。
入学してキャリア教育や福祉分野のインターン活動など興味のある分野には積極的に関わったのちに休学してフィリピン留学も経験しました。
その後は学費を稼ぐ為に群馬県の旅館の仲居として住み込みで働きました。
その後沖縄に戻り、約2年間に渡って教育系学生ベンチャーのメンバーとしてプロジェクト内で会議の進行を活性化させるファシリテーションを実践し、学生の研修や育成も担当していました。
自らが発言をして会議をリードしていくのではなく、いかにメンバーから発言を引き出し全体の流れを結論に導くかというファシリテーションの役割が自分にも合っていて、とてもやりがいを感じました。
また学生をしながら企業の方とお仕事ができたのは良い経験になったと思います。
大学3年の秋には自分の原経験から課題意識を持っていた「子どもの貧困」へのアプローチを探すべく、教育系学生ベンチャーを離れインプットの期間を過ごしていました。
3年生の終盤にワークショップで知り合った方から、スマートフォンアプリを経由した虐待防止を目的としたベビーシッターサービスを立ち上げるので、そのブレインとして手伝ってもらえないかと依頼されて、住居も提供してもらえることから東京での生活を始めました。
ほぼ単位は取り終えていたので仕事をしながらゼミに出席する為に飛行機で沖縄に戻るという生活でした。
友人から受けた衝撃の連絡。誰にも負けない武器が欲しかった
―その後はどの様にして現在のキャリアを形成されたのでしょうか?
私は中学時代からよく友人の相談に乗っていました。みんなの相談役という感じでしょうか。中学の友人にはやんちゃな子が多くて16歳ぐらいで子供が出来て結婚した子もいます。
お互いに心の準備が出来ていないまま結婚するケースも少なくなく、それによってケンカが絶えずに別れてしまう夫婦もいました。
それと似たケースの相談を持ちかけてくるある友人がいました。その子の旦那さんは彼女に対して普段からキツく接してしまう人で、私は彼女の愚痴を聞きながら少しでも二人の関係が良くなればと私なりにアドバイスをしていたつもりでした。
でもある日彼女から青あざがついた腕の写真が送られてきて「殴られた」と。悲しい気持ちになると同時に私が話してきたことは何も解決に繋がらなかったという無力感にも襲われました。
「この分野なら私に任せて」と言える武器が欲しいと切実に感じました。
その経験から物事を解決するためには聞くだけでなく、問題解決に切り込むアプローチが必要だと感じ、当時描き始めていた状況を可視化するグラフィック・レコーディング(以下、グラレコ)という技術が自分の武器になってくれるはずと考えました。
趣味でやっていたデザインや高校時代から学んできたマーケティングの知識、聴覚障がいを持つ学生の横で講義内容を要約筆記するノートテイカーの要約力が役立ちました。
最初は運営に関わっていたファシリテーション講座で受講生の振り返りになればとグラレコを描き始め、企業の数人規模の勉強会から次第に経験を積んでその規模を大きくしていき、大学卒業後はグラレコを主軸にフリーランスで活動するほどのめりこみました。
今では数百人規模のカンファレンスや大手企業のクライアントも増え、グラレコ講座も持つまでになりました。
【HP】https://orangemotion.mystrikingly.com/
この仕事のやりがいは私のグラレコがあったからこそ生まれるコミュニケーションがあると言われることですね。私が描いたものがベースになって、新たな視点や問題提起が生まれるのは嬉しいです。
可視化することで課題解決のお手伝いや、会議やプロジェクトが前進することが嬉しいです。私はグラレコを含めたファシリテーションの役割を促進と舵取りと考えています。
東京はお金の価値観を広げてくれた場所
―松田さんにとって東京はどの様な場所ですか?
中学生からいかにお金を使わないように暮らせるかと考えてきた私にとっては東京はお金の価値観を広げてくれた場所だと言えます。
社会に出てから感じたことは東京には沖縄では想像もできなかった金額を使える人達がいて、またその人達をターゲットとしたマーケットが広がっていること。また色んな発想や技術をきちんと評価して、対価として支払ってくれる人達がいる事は大きな勇気をもらえました。
大学生だった私にも挑戦させてもらう環境は東京の懐の深さのように感じましたが、1人では決して出来なかったと思います。色んな人達との出会いやご縁があり今があると感じています。
教育分野への応用もしたい
―今後の目標を教えてください。
今、各企業で実施しているグラレコの内容をさらにアップデートさせていきたいですね。グラレコ講座もすでに150人ほどの受講生を輩出していて今では有難いことに2ヶ月待ちとなっています。
グラレコが浸透した結果、ビジネスの成長に繋がれば嬉しいです。
一方で親子間でのコミュニケーションの齟齬を、絵や図による可視化を通して埋めるという教育分野への応用も考えています。
子供が親にうまく伝えられなくて伝達を辞めてしまうこともあるので、言葉に出来ないことを色とか形を使いながら表現する伝達手段として可視化が選択肢の1つになってくれたら幸いです。
沢山の情報に触れて、勇気を持って1歩を
―最後に読者にメッセージをお願いします
以前は「難病の人達の為に」「悲しむ友人の為に」と歩き始めた目標が、予想もしない形で広がりを見せていることに私自身が驚いています。何がきっかけになるかなんてわからないものですね。
貧しくても、病気を持っていても、困難を抱えていたとしても、「やりたい」という気持ちを胸に突き進んじゃえばいいと思います。
もしも諦めそうな時は「どうにかできないかな」と少しだけ立ち止まってポジティブに考えてみてください。自分の価値は誰かに喜んでもらう経験を重ねる事で得られていくものだと思います。
沢山の情報に触れて自分がやりたい事に勇気を持って1歩を踏み出してみる。それが喜んでもらえる武器になるかもしれません。
松田海(まつだ・まりん)
1995年那覇市生まれ那覇商業高校を卒業後、沖縄国際大学産業情報学部在学中に、教育系ベンチャーの活動を通してファシリテーションを学び実践。その後、会議や勉強会、カンファレンスなどの議事をイラストや図式、文字を用いて可視化する「グラフィックレコード」の技術を習得。現在は東京を中心に、大規模カンファレンスで独自の技術を用いたグラレコやファシリテートを実施。IT企業や大手芸能事務所など多数のクライアントを抱え、全国を飛び回っている。2019年9月1日に念願の沖縄でのグラレコ講座を開催。詳しい詳細はツイッターで発信中。
【HP】https://orangemotion.mystrikingly.com/
【twitter】:@_okinawaa
松田さん、お話ありがとうございました!
松田さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。
コメント