「沖縄出身という個性は強みになりますよ!」
そう話すのは、ニッポン放送を経て現在はフリーアナウンサーとして活躍されている垣花正さん(宮古島市出身)。
子供の頃からの夢だったアナウンサーになるために生徒会長をしたり欽ちゃん劇団に入ったり、夢を叶えたと思ったら和田アキ子さんとの初仕事にいきなり遅刻して土下座することになったり、パワフルなエピソードを豊富にお持ちです(笑)。
そんな垣花さんに仕事への姿勢や故郷・沖縄への思いについて教えていただきました。
ラジオにかじりついた少年時代
―現在のお仕事について教えてください。
ホリプロ所属のフリーアナウンサーとして、ラジオ番組のレギュラーパーソナリティー、情報・バラエティー番組を中心としたテレビ番組に出演をしています。
―沖縄ではどんな日々を過ごされてきましたか?
幼少の頃の宮古島は今みたいに娯楽が少なくて、テレビやラジオにかじりついていました。
でも当時はNHKかケーブルテレビしか入らない時代。フジテレビの「笑っていいとも!」が2週間遅れて夜に放送されていました。プレゼントの応募はとっくに締め切られていましたけど(笑)。
中学3年生ぐらいになるとラジオの深夜放送をよく聞くようになりました。中でもお気に入りはニッポン放送の「オールナイトニッポン」。でも宮古島には中継局がなかったので、周波数を苦心して調整してやっと微かに聞こえる放送を耳を澄ませて聞いていました。
そのうちにメディアに対する憧れといいましょうか、ラジオを通して想像する東京の華やかな世界に興味を持つようになりました。
情報が少ない島ならではの飢餓感みたいなものもあったと思います。
有名大への抜け道発見!?
―宮古高校では生徒会長を務められたそうですね。
はい。これにはしっかりと意図がありました。東京の大学に進学できたらアナウンサーを目指そうという目標です。
東京に出ないとどうにもならない仕事の1つがアナウンサーだと思っていましたし、アナウンサーを数多く輩出する有名大学への進学は大事な要素でした。
でも一般受験での難関大突破はなかなか容易ではない。そこで受験雑誌などを読み込んで調べていると早稲田大学の自己推薦入試が始まるという事を知りました。高校1年生の時です。
入試で合否を問うものでなく、その名の通り高校時代に勉学だけでなくそれ以外の何かに取り組んだ個性ある学生を選ぶ試験に「これだ!」と思いましたね。ただ単純に抜け道を探したという(笑)。
先生達もまだそんな入試制度があることを知らなくて、これで早稲田を受験します!といったら「え?何言っているの?」と、ポカーンとしていました。
しかし早稲田に入るにはこれしかないと思い初年度の合格実績を調べたり、評定平均を上げるために中間・期末テストを疎かにしなかったり、2年間かけて周到に準備しました。
生徒会長の学内活動もその1つです。受験対策というより早稲田の自己推薦対策でしたね。その結果、早稲田大学社会学部に合格する事ができました。
―憧れの東京での学生生活はいかがでしたか?
東京に出てきた最初の1週間は外を歩くのが怖かったです。大学寮に入る前の1週間、従兄弟の家に居候させてもらったのですが、その街に何があるか、何をしていいかも分からず、一日中部屋に籠っていました。
その時は馴染めるか不安もありましたが入寮してからは友達や先輩との会話や付き合いを通して色んな所に出かけるようになり、次第と東京の情報も増えて活動範囲も広がっていきました。
欽ちゃん劇団1期生に
―アナウンサーを目指す上で色々な経験をされたとか?
大学のアナウンス研究会にも入りましたが雰囲気に馴染めなくて学外で探しました。
コピーライター養成所や企画塾、萩本欽一さんが主宰する欽ちゃん劇団の一期生にもなりました。アナウンサーを目指すなら人と違う経験をしておいた方がいいだろうと。
大学の自己推薦入試もそうでしたが目標に向けて長いスパンをかけて準備をする癖がついていたんでしょうね。
欽ちゃん劇団のオーディションは2000人受けて合格者100人という倍率で、その100人でも毎日稽古に呼ばれるのが10人。運よく自分もその中に入ることができました。
その10人が欽ちゃんに直接稽古をつけてもらえるのですが、やはり自分が一番気に入られたいという戦いが始まるんです。当然、自分も!という気持ちがあって、ついついがっついてしまうと、欽ちゃんからは「そう、がっつくなよ」と。ホント、お見通しでしたね。よく怒られました。
でも質問に対して黙ってはダメとか、質問に質問で返すなとか、言葉のキャッチボールと言いましょうか。欽ちゃんからは今の仕事にも通じる大切な事を教えてもらいました。
―その欽ちゃん劇団を約1年で退団されます。
欽ちゃん劇団では旗揚げ公演にも出させてもらうなど気が付けば生活の中心になっていて、大学に全く通えていませんでした。
劇団に通うペースを減らして学業優先にしても良かったのですが、せっかく欽ちゃんに気に入られたのに疎遠になってしまうのが悲しくて辞める決断をしました。
公演にも出ていた人間が突然辞めると言ったので事務局の人も驚いていましたけど。100か0で考えている所がまだ大人気なかったですね。
それでも目標はアナウンサーになることでしたし、大学を中退してしまっては就職に不利というのもあったので、お世話になった欽ちゃんにはお詫びとお礼の気持ちを込めて手紙を書きました。
体当りで臨んだアナウンサー1年目
―努力の甲斐もあって就職試験では難関を突破してラジオ局のニッポン放送に採用されました。
恐らく採用担当の方が僕がこれまでやってきた事を評価して「こいつは面白いぞ」と思って下さったんでしょうね。沖縄出身というパワーワードも生きたと思います。
僕は宮古島出身ですが幼少期からNHKや全国放送を見て育ったので、それほど訛りは強くない方だと思っていました。
でもプロの世界は厳しい。入社した頃は徹底してアクセントを直されました。それでも満足にニュース原稿も読めない。かなり苦労しましたよ。
それでもプロデューサーの方が「原稿なしで自由にしゃべってみろ」と局の看板番組の「オールナイトニッポン(第二部)」のパーソナリティーに入社1年目の僕を起用してくれました。
そういう“こいつ何かやってくれるそうだから、使ってみよう”という柔軟で自由な社風があったからだと思います。
練習を積んで原稿は訛らずに読めるようになりましたがフリートークで自分の思っている事を標準語で話すことがなかなかできない。ならば身体を張ろうと。
それで丸坊主をかけたダイエットや、音痴を逆手にとってヒット曲トップ10を歌って紹介するコーナーなど体当り企画に全力を注ぎました。
アッコさんとの最初の仕事で…
―そして和田アキ子さんと運命的な出会いをされるわけですね。
ある意味、運命的で衝撃的でしたね(笑)。アッコさんとの初めての仕事が、冠番組の「アッコのいいかげんに1000回」での中継リポーターでしたが、見事に寝坊して遅刻しました。原因は前夜の飲みすぎで・・・。
普通だったらそういう大事な仕事の前日に深酒しようと思わないじゃないですか。スタッフからも「特番での中継だし、早めに来てね」と言われているのに飲みに行くなんて舐めていますよね。
そして起きたら番組スタートの朝9時になっていて、慌ててスタッフに電話して出番を確認したら9時10分でした・・・(笑)。
もう、誰もアッコさんに今日初めて登場するレポーターが遅刻したなんて恐ろしくて言えませんよ。
そのまま番組は進んでアッコさんが中継場所にいるはずの僕の名前を呼び掛けたら出てきたのが僕の先輩アナウンサーで「すいません、アッコさーん。今、垣花くんがちょっと遅刻していまーす」と返したら、そこで初めて知ったアッコさんが「なんやと!!!」と、オンエアに怒号が飛ぶという・・・。
ええ、初対面は土下座でした。そうしたら笑顔で「謝らんでええでー。もう二度と会う事ないんやから」と(笑)。
ある意味、お前はしょうがない奴だなという所からスタートして、何度かアッコさんの番組に定期的に出させてもらっているうちに少しずつ許してもらったという感じですね。
そこからは10年かけてネタになって「初っ端に遅刻した奴もおるしな」と時々いじってもらっています。
僕が沖縄出身という事で許してもらえたというのもあるかもしれないですが、ダメな部分を面白がって優等生ではないそのダメな個性さえもいじって番組に生かそうよというニッポン放送の社風にかなり救われた部分は大きかったと思います。
このエピソードが皆さんに当てはまるとは思わないですが、沖縄出身ということが色んな形で武器になるという事を自分の中で思っていたほうがいいですよ。
―その後は数々の番組のメインパーソナリティーを務められて、2019年3月に25年間務めたニッポン放送を退職されました。フリー転向のきっかけは?
ニッポン放送では毎週月曜から金曜まで朝の帯番組「垣花正のあなたとハッピー!」を担当していて、加えて土曜にはアッコさんの番組に出させてもらうなど週6日働いていました。
でも働き方改革という時代の流れもあり週1回減らして欲しいと局から通達されたんです。
僕は働きたいけども会社のシステムとして出来ないと言われたので、ならばフリーになって働きますよと。一番の理由は出番を減らされるという事でした。
それでアッコさんとのつながりでホリプロしかないと思い、仲のいいマネージャーさんを紹介して下さってお世話になることになりました。
フリーとなったことでギャラが発生するのですが、変わらずニッポン放送でお仕事をやらせてもらっているのは感謝しかありません。
沖縄の歴史や文化を伝えたい
―今後の目標を教えてください。
最近になって沖縄出身だからこそ出来る事があると実感していて、沖縄関連の本を読み込んでいます。
東京でやっているからこそ沖縄人としてのアイデンティティーみたいなものがより必要とフリーになって感じました。
自分の個性は何だろうと思うと考えた時、やはり足元に戻ってくるのでしょうね。
番組出演で自分の沖縄にちなんだエピソードを披露する時も、バックボーンとしてしっかりと歴史や文化風習があればより輝くはずだと。だから最近は沖縄の雑学やメディアの歴史なども読んでいますよ。
今まで断片的にやってきたことをもっと体系的に勉強して沖縄の歴史や風習などを吸収して、笑いなどの柔らかい形でのアウトプットにできたらと思っています。
この顔立ちなので沖縄は切ってもきれない。また沖縄かよと言われないぐらいに頑張りたいです。
―最後に読者にメッセージをお願いします。
これから島を離れて県外に出ると、色んな場面で島との違いに直面するはずです。
それでも自分が所属した集団のルールやノリを理解した上であなたが沖縄だという個性を上手に生かせば必ずうまくいくはずです。
今は多様性の時代。言葉の問題で委縮する必要はありません。育ってきた言葉や信念を大切にして、思いを形に変えていってください。応援しています!
垣花正(かきはな・ただし)
1972年、宮古島市生まれ。宮古高校、早稲田大を卒業し94年、ニッポン放送入社。1年目でオールナイトニッポンのパーソナリティーに抜てき。「ゴッドアフタヌーン アッコのいいかげんに1000回」のアシスタントのほか、2007年からメインパーソナリティーを務める「垣花正 あなたとハッピー!」を担当。19年3月にニッポン放送を退社し、フリーアナウンサーに転向。現在はホリプロに所属し、ラジオ・テレビと活躍の場を広げている。
垣花さん、お話ありがとうございました!
垣花さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。
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