そう語るのは、都内の美容室にてスタイリストとして活動される本永圭さん。
駅伝を通して培われた上達する感覚、東京のセンスの高い仲間に恵まれて磨かれた感性、ボランティアや仕事を通じて実感した「自ら動くことの大切さ」。
そうしたキャリアから実感する東京で活動するためのコツ、次世代へのメッセージを教えていただきました。
駅伝が教えてくれた“上達する感覚”
―沖縄ではどんな幼少期を過ごしていましたか?
生まれは宮古島ですが、父親が医者で転勤族だったこともあり幼稚園までは石垣島で過ごし、小1から小3までは神奈川県の秦野市におりました。
そういう背景もあって1つのコミュニティでずっと過ごすことよりも新しい環境に飛び込むほうが性分に合っていた気がします。友達ができるのも早かったですし一人で行動するほうが気楽でした。
学校では運動が好きで中3から高1まで駅伝部に所属していました。軽い気持ちで毎朝ランニングをしていたところ顧問の先生に「本格的に走ってみるか?」という感じで気が付けば部員に登録させられていました(笑)。
でもいきなり速く走れる訳ないですよね。それが恥ずかしくて嫌だったので負けず嫌いの気持ちだけで練習したら島の大会で6位から3か月で1位を取ることができました。
先生も教えるのが上手だったのでしょうね。表彰台に立つことがご褒美という感覚で熱中していました。
高校に入って怪我もあり結局は辞めてしまいましたが、出来なかった事が練習を通じて上達する感覚は達成感がありましたね。
やっと決まったアルバイト
―その後の進路はどの様に決めていましたか?
漠然とですが将来は看護師や理学療法士といった医療系に進みたいなと思っていました。 またリリー・フランキーさんの映画「東京タワー」を観て東京への憧れがあったので高校卒業後は沖縄を離れることを決めていました。
その為には少しでも資金を手元に残しておきたかったので高校3年の夏になって初めてアルバイトを探し始めました。
時期的にもどこも見つからない。タウンページに乗っている色んな業種を片っ端から当たって、ようやく最後のページにあった美容室がOKしてくれました。
そこはすごくアットホームな感じのお店でお客さんも顔なじみの方が中心。僕はシャンプーや掃除を担当していましたが、散髪を終えたお客さんが気持ち良さそうに出ていく姿が印象的で、こんな形で人を元気する仕事って魅力的だなと思うようになり、美容業界に挑戦してみようという気持ちが大きくなりました。
全く未知の分野でしたが迷ったら知らない方にチャレンジしてみようという気持ちがあったので、自分で調べて有名美容師を多数輩出している東京の国際文化理容美容専門学校の存在を知りました。
事前に学校見学にも行って生徒や講師陣の意識が高いこの学校ならば納得してから出願して合格することができました。
同級生の意識に触発されて
―初の東京生活はどうでしたか?
寮生活でしたが楽しかったですね。この学校は渋谷と国分寺に校舎があって僕は国分寺校でした。
地方出身者はほとんど渋谷校に通っていたこともあり、周りにはお洒落感度の高い東京出身の子が集まっていた気がします。
自分はまだ土地勘もなかったのですが彼らに出来たばかりのお台場や原宿に連れていってもらい、流行のインプットやセンスを磨くことが出来ました。
またその同級生たちは目立ちたいモテたいという意欲が凄い(笑)。コンテストで賞を取る事を目標にする人も多くて、1位を取った人の熱意と努力って半端ないんですよ。そういう意識が高い彼らの近くにいるうちに自分も自然とコンテストでの入賞を目指すようになっていました。
他者と差別化するにはどうすればいいのかと考え、器用な手先を生かせるメイクの分野でコンテスト挑戦に照準を定めました。
でもメイク分野は女性が主で100人のうちエントリーできる男性はたった3人のみ。クラスの女子に協力してもらってメイクの練習をしたり、デパートの化粧品売り場に行っては周囲の視線を後頭部に受けながらアイシャドウを試してみたりして勉強を重ねました。
その結果全国大会で特別賞を受賞できメイク技術という大きな自信を手にすることができました。
東京に出てくる沖縄出身者は良くも悪くも沖縄の人同士で集まりがち。もし地方出身者が多い渋谷校に行っていたら、もしかしたら自分もそうなっていたかもしれません。
メイクは技術以上に感性が大事。そういう意味ではアンテナの感度を磨いてくれた国分寺校の同級生達には感謝しています。
震災ボランティアが教えてくれたこと
―卒業後はどのようにしてキャリアを積み上げてきましたか?
卒業後は都内の美容室でアシスタントとして働きました。シャンプーや掃除、先輩スタイリストの補助をしながら技術を吸収していくいわば下積み期間で、朝から夜までお店に立ち続けました。
そこでの息抜きが閉店後に高田馬場や東新宿の隠れ家バーで一杯飲むことでした。そこでは様々な世代や業種の方が集い色んな話を聞くことができ、こんな価値観があるんだと多くの刺激をもらうことができました。
ちょうど東日本大震災の直後の夏、被災地で美容室復興の手伝いがあると友人から誘いもあったので、2年間務めたアシスタントを辞めて岩手の石巻に向かいました。
現地でのボランティア活動は基本、自給自足が原則。僕達はテント生活をしながら被災した美容室の瓦礫撤去や泥かきから始めて、約2か月かけて再建まで立ち会いました。
途中、ボランティア仲間の散髪をすることはありましたが被災者の方は対象にしていませんでした。なぜならば僕らが現場でカットをしてしまうことで、地元の方々の仕事を奪うことになってしまうからです。
優先するのは一日も早い復興であり地元の経済を回すこと。その為には何が求められているかを自分で調べて動くことが求められました。
自分からこれが出来ますと発信出来ないと誰からも声がかからないんですね。
その意味では石巻での2か月間で「自分で考えて動く姿勢」を身に着けることができ、それは今でも生きていると言えます。
東京に戻ってからは原宿の美容室でアシスタントになりました。小さなお店でしたが仕事に求める姿勢はすごい厳しく、当然誰も教えてくれません。
そこで自分は石巻での経験を生かしながら自分の強みや足りない技術は何かを常に考え、オーナーの仕事を見ながら盗んでいく感覚で勉強して2か月間でスタイリストになることができました。23歳の時だったので業界では早い方だと思います。
しかしスタイリストになっても盤石というわけではありません。常に流行は変化していきますしお客さんの好みも変わる。自分でアンテナを張り巡らしながらセンスと技術の両面を磨く必要があります。
【最新のInstagramより】
【Instagram】kei_k_k_k_k
またメイクの事例もただ単にSNSにアップするだけでなく、どうしたら綺麗に映るかを考えて撮影方法も独学で学ぶなどして工夫しました。4年間の在籍の間にスタイリストとしての自分のコアを作れたと思います。
いつかは地元に恩返しを
―現在は個人事業主として美容室に勤務されているそうですが、正社員を選ばなかった理由はありますか?
もっと1人のお客さんにじっくり向き合いという思いが強くなり、色々調べて現在のバロン新宿店に行きつくことができました。
正社員の道も選べたのですが業務時間外に後進育成のために時間を割く義務がなく、セミナー出席などにも自由に参加できる業務委託の形を選びました。
当然、成果という形で厳しい査定はありますが、やはり自分の仕事は技術があってこそ。より仕事に集中できる環境があっていました。それにまだ子供が小さかったので生活スタイルに合わせた働き方が出来るのは良かったです。
お客様は9割が女性で有難いことに指名客数ではお店で1番を頂くまでになりました。40代を自由に働くために30代の残りは色んな事に意欲的に挑戦して形にしていきたいですね。
でも一生、美容師で終えるつもりはありません。色んな事を模索していっていつかは地元の宮古島に恩返しが出来たらと思っています。
一歩を踏み出さないと何も始まらない
―最後に読者にメッセージをお願いします。
東京は可能性を秘めた街です。自分が実現、表現したい事、その方法や手段を見つけることができるしその選択肢の多さは地方とは比較になりません。
また色々な価値観や目標を持った人が集まるので、出会いを通して大きく人生が進む可能性もあります。
その一方で苦労や挫折も同じぐらいあるでしょう。でもそういった経験も今いる場所から一歩を踏み出さないと味わうこともできません。
僕は東京に出てくることも1つの才能だと思っています。島を飛び出すきっかけは何だっていい。皆さんには沖縄という素晴らしい故郷がある。帰る場所があれば、なんだって挑戦できるはずです。
本永圭(もとなが・けい)
1988年5月20日 宮古島市生まれ。 宮古高校卒業後、東京・国分寺国際文化理容美容専門学校で美容師資格を取得。 都内の美容室でアシスタントを経て23歳でスタイリストに。現在はバロン新宿店に勤務し、骨格や髪質に合わせたカットとカラー、パーマ、ヘアアレンジ等多彩な技術で多くの顧客から支持を集めている。
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本永さん、お話ありがとうございました!
本永さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は、「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。
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