そう語るのはラクロスU-22日本代表も経験し現在は人材コンサルタント、スポーツコミュニティデザイナーとして活動される宮城創大さん。
スポーツに打ち込みキャリアを駆け上がっていく中でアキレス腱切断の大怪我により挫折を味わい、そこから立ち直って新しい夢を掴んでいくまでの過程と、次世代へ向けてのメッセージを語っていただきました。
体育教師になりたかった
―現在のお仕事について教えてください。
人財系の会社でHRコンサルタント(人事コンサルタント)として活動しています。 主に元アスリートの経験を活かしたキャリア支援事業やスポーツ事業部の立ち上げを行っています。
また“場づくり”“街づくり”を見据えた店舗のコンテンツ設計やコミュニティーデザインなどにもチャレンジしております。
―沖縄で過ごした日々について
宮古島出身で教職員の父と愛知県出身の母のもと沖縄市で生まれました。小学2年生までは沖縄市で過ごしましたが父親の転勤に伴い小学3年生から西表島で暮らすことになりました。
沖縄市と比べて西表島は自然の宝庫という感じで、遊び場は自宅から徒歩5分のマングローブ林。よく蟹を取っていました。自然と地域の人達に育てられたという感覚で今でも自分の原点とも言えます。
通っていた西表小学校は当時の全児童数が12人。1つの教室で2学年が授業を受ける複式学級だったのでまるで塾という感じです。
部活動はバスケット部しかなく男子女子含めほぼ皆でプレーする感じで僕も何となく始めましたがどんどんのめり込んでいきました。
父親が宮古島の学校に転勤となり僕は宮古高校に進みました。勿論高校でもバスケット部に入り部活に打ち込んだ高校時代でしたが、2年生になったあたりから父親の影響もあったと思いますが将来は高校の体育教師になりたいという目標を持つようになりました。
―県外の大学に進まれました。そこで思わぬスポーツとの出会いがあったとか?
尊敬するバスケット部の先輩や教育実習で来ていた先生が東海大学に通っていて環境がいいと聞かされていましたし、高校での成績ではなく人物評価、将来への目標など総合的に判断するAO入試というのがある事を知り、これなら自分にもチャンスがある!と迷わず出願し体育学部に合格することができました。
大学でもバスケットをしたかったのですが全国からエリート選手が集められる屈指の強豪校でほとんどが推薦入部。わずかなチャンスとして入部テストもあったのですが残念ながらパスすることは出来ませんでした。
でもせっかく体育学部に来たのにスポーツができないというのはつまらない。何か出来ないか?と模索しているところに、最初に仲良くなった友人から「一緒にラクロスやらないか?」と誘われました。
最初はあまりイメージできなかったのですが、軽い気持ちで体験してみたらこれが面白い。簡単に言えばアイスホッケーの空中版でしょうか。 何よりも大学で競技を始める人がほとんどなので頑張りようによっては上を目指せるチャンスがあることが一番響きましたね。
練習すればするほど自分が上手くなっていくのが分かってからはどんどんラクロスにのめり込んでいきました。
ラクロスU-22日本代表に選出
Photos by To-shi
-その後は実際にトップレベルまでに上り詰めました。
1年生から関東選抜に入る事ができ、4年生では22歳以下(U-22)の日本代表に選出されてアジア・オセアニア大会で優勝することができました。
ここまで来られたのは1年生から日本代表の練習を見学する機会に恵まれた事ですね。これはチャンスだと思ってトップ選手がどんな動きをしているのか、何を考えているのかなど質問して少しでも技術を吸収しようと心掛けたことが大きいと思います。
西表島で過ごした小学校時代、どれだけ上を目指した所で混成チームでの試合だったので全国大会、県大会もありませんでした。中学、高校でも全国で強豪と呼ばれる人たちがどれだけの実力があるのか想像ができなかった。
でも東海大学に来てトップレベルを肌で感じることができたことが自分に大きな変化をもたらしました。その変化に対応する自分を見られたことも1つの成功体験と言えます。
夢を挫折
―大学卒業後はどんな進路を?
当初の目標だった沖縄で高校の体育教師になるべく教員試験を受けたのですが、落ちてしまいどうしたものかと。
ちょうど卒業前にラクロスのA代表の選考に残っていると伝えられ、2014年のワールドカップ(W杯)出場が1つの大きな目標でもあったので一般企業で働きながらW杯出場を目指す道を選びました。
ところが代表合宿でアキレス腱切断の大けがを負ってしまい1年間を棒に振ることになりました。
日本代表になりワールドカップで活躍するべく東京に残っているのに、自分は何をしているんだろうと葛藤の日々でしたが、何とか奮起してリハビリに専念することにしました。
日中は松葉杖をつきながら営業の仕事をして夜はリハビリという生活を続けてようやく代表候補に復帰することができましたが、W杯1年前になって候補から落選を知らされて。そこからまた4年後のW杯を目指す意欲は残っていませんでした。
果たして自分はトライ出来ているか?
―現在のキャリアにたどり着いた理由は?
リハビリ期間中、規則的な就業時間を求めて転職した先が幼児体育を手掛ける会社でした。 そこで子供たちに日頃から伝えていた「失敗してもいいからやってみよう!」という言葉を思い出したんです。
目標を失った今、果たして自分はトライ出来ているんだろうか?と胸に刺さって会社員のままここにいては駄目だと思い、退職してフルコミッションで営業の仕事を始めました。
その理由として自分がやり切ったという感覚が欲しかった。でもそんなに簡単にはいきませんね。3年ぐらいは暗中模索していたと思います。
改めて根源に立ち返ってみると自分は人が好きで人に良い影響を与えられるようになりたいという自覚がありました。
自分の軸というのが見えてからは意識を持って動くようになり、現在の場づくりを手掛ける会社や人財系の会社と巡り合うことができました。
仕事をする上では関わる1人1人に価値があって、その人の思いに共感して共に歩んでいくというスタンスを大事にしています。答えは僕の中ではなくお客さんの中にあると思っています。
離島の中高生に自分の可能性に気づいて欲しい
―現在は新しいプロジェクトに取り組まれているそうですね。
スポーツ分野で活躍する沖縄県離島出身者と八重山や宮古などの離島の中高生を結び、学生たちに刺激と自分たちの可能性に気づいてもらうことを目的としたプロジェクトを立ち上げました。
僕もそうでしたが情報や人材の流入が少ない離島にいると島外に出て活躍することは非常に大きなハードルと思ってしまう。
でも実際に活躍する同じ離島出身の先輩たちの経験を共有することで自分たちにも出来るんだという勇気を持ってもらえると確信しています。
第1回目は石垣島と宮古島の高校生を対象に関東強豪大学で将来のプロ野球選手を目指す石垣出身の学生のトレーニング方法をレクチャーしてもらいました。
高校生も積極的に質問や意見交換して、中にはすぐに自分のトレーニングに取り込んだ子もいて手ごたえ十分でしたね。やはり生の声を伝えるのは大事だと実感しました。 今後は月1度のペースで体づくり、体のケア、考え方の3つを軸に離島出身のプロアスリートや有識者にも協力をお願い出来ればと思っています。
―離島の子供たちに伝えたいことはありますか?
新型コロナウイルスの感染拡大が従来の私たちの生活スタイルを一変させました。オンラインでどこでも繋がることができるようになった今、離島という遠隔地は情報格差の理由にはなりません。
スポーツに限らず勉強や職業技能でも自分のやる気さえあれば世界中の人と繋がることがでる時代です。
大切なのは自分で動いて情報を掴む力を養うこと。逆に離島生まれならではの感性や独自の視点を発揮して欲しいですね。
僕自身のこれまでを振り返っても決して順風満帆ではありませんでしたが、失敗と挑戦を繰り返すことで経験値が上がり、それが自信につながりました。
何かと不安が多い時代ですが、前向きに向上心を持って生きれば可能性や人の縁は広がるはずです。どうか変化を恐れず、新しい扉を開く勇気を持ってください。
宮城創大(みやぎ・そうだい)
1989年8月29日宮古島市出身 沖縄市で生まれたのち、西表島を経て中学から宮古島で育つ。 平良中、宮古高校から東海大学体育学部に進学。ラクロス部に入部後、4年次には22歳以下の日本代表に選出。アジア・オセアニア大会優勝に貢献。 卒業後、OA機器会社営業職、幼児体育サービスを経て、株式会社ティーケーラボに所属。 人財コンサルタントとしてキャリア支援に関わるほか、2020年からは離島出身の中高生とアスリートをつなぐ新プロジェクトを立ち上げた。
【Facebook】https://www.facebook.com/soudy34/
宮城さん、お話ありがとうございました!
宮城さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。
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