継続こそ力なり。
そう語るのはうちな~噺家・コメディアン・俳優・沖縄ことば指導者の藤木勇人(ふじきはやと)さんです。
郵便局員、りんけんバンドを経て「大博打」で足を踏み入れた芸の道。
そして「うちな~噺家・志ぃさー」として沖縄落語の草分けとなってNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」に参加・出演するまでにいたり、立川志の輔師匠に「奇跡だ」と認めていただけるまでの道のりとは。
またそのキャリアから来る「継続こそ力なり」という言葉に込められた思い、次世代へのメッセージも教えていただきました。
営業能力を磨いた郵便局員時代
―沖縄ではどんな日々を過ごしていましたか?
小学生の時に交通事故に遭い、高校生ではB型肝炎ウイルスを発症して入院生活が長かったせいか、高校卒業する頃には二十歳になっていました。
今から大学に行っても遅い。手に職をつけようと思った時に入院生活で看護師さん達にお世話になっていた事もあり、看護学校を受けました。
それで合格したのが那覇の看護学校。毎日コザから通いましたよ。今では男性の看護師も当たり前ですが、当時はクラスに男は2人だけ。辛かったねー。
その時から将来は男性にも有望な職種だからと言われていたけど、我慢できずに夏休みに辞めました。
その後はタクシー会社に住み込みでアルバイトをしたり、ウインドサーフィンをしたりとしばらくはぶらぶらしていたけども、一緒に硬式テニスやっていた先輩が郵便局員試験に合格したんです。
そうしたら「郵便局員は最高だよ。生活も安定しているし、休みも多いし」と聞かされて、それならば自分もと受けて合格することができました。
でも当時は試験に合格しても1年間採用枠が空かなかったら取り消しになってしまうんですよ。大丈夫かなと?不安で一杯でしたが、運よく那覇東郵便局が採用したいと手を挙げてくれて晴れて郵便局員になることができました。
[st-kaiwa-1884]その職場が辞めた看護学校の目の前だったというオチもありますけどね(笑)。[/st-kaiwa-1884]
それで最初に任された仕事は保険外務員。想像していた内勤職とは違って営業をかけないといけないですからね。毎日暑い中、お客様の所を駆け回りました。
確かに手当てを含めたらお給料は良かったですけども日々、ノルマとの戦いでしたよ。
歌が歌えないアーティスト
―郵便局員の傍ら芸能のお仕事も並行されていました。
元々、小さい頃から本能的な芝居好きでよく芝居を観に行っていました。
高校の同級生の兄貴が玉城満さんが主宰していたアマチュア劇団「笑築過激団」の役者をしていたこともあり、紹介されて舞台を手伝う黒子役として参加することになりました。
その翌年に照屋林賢さんに声をかけてもらって「りんけんバンド」のメンバーとしても活動することになりました。
と言ってもほぼ荷物運びがメインでしたけど、ある時に林賢さんから「お前キーボード弾いてみろ」と言われたんです。でも自分は全く弾けませんよと言ったら「大丈夫!最初からスイッチ入っていないから」と。
「シンセサイザーのスイッチはこっちで操作するから、お前は弾いているマネだけしろ。マイクの前に立つだけでも舞台が華やかになるから」と言われました。
[st-kaiwa-1884]もう滅茶苦茶でしょ(笑)。[/st-kaiwa-1884]
さらに当時の自分はウチナ―グチが全くできないからマイクの前でも口パクだけ。そりゃ恥ずかしかったね。だから必死で林賢さんの歌を聞いて勉強しましたよ。そこからかな?ウチナ―グチが分かるようになったのは。
あと「笑築過激団」でもウチナ―ヤマトグチを使っていたのに加えて、昼間の郵便局員の仕事でもお年寄りと顔を合わせていたので、そういった所からも吸収できたと思いますね。
ウチナ―グチの面白さに気づいてからは自分でも驚くぐらい早く覚えたので、今思えばそれも才能の1つだったのかな?
一見、芸事には全然関係がない郵便局員の仕事も、すごく役に立った。
営業の仕事は社会生活を送る上でも本当に大事な事を教えてもらえましたし、こうして芸能の仕事に関われているのも郵便局員で培った営業能力だと思います。
お金を集める能力や企画を信用してもらう話力。4年半の郵便局での経験がなければ今の自分はいませんよ。
大博打を打って芸の道へ
―そこから芸能の道に専念されます。
りんけんバンドの東京進出が決まってからも暫くは郵便局員として働いていました。土日に東京でライブを開いて月曜日に帰るからどうしても出勤できない。
最初は東京から「体調がどうしても悪くて」と休みをもらっていたけども、そうしているうちに林賢さんから「もう郵便局は辞めろ。人生1度しかないから自分のやりたい事をやったほうがいい」と言われて。
でも自分の中では「別にりんけんバンドがやりたいわけでは…」とぐるぐるしていましたが、気が付けば結局は4年半務めた郵便局員を辞めていました。
[st-kaiwa-1884]今でも洗脳だと思ってます(笑)。[/st-kaiwa-1884]
当時すでに結婚して子供もいたので、もう大騒ぎ。嫁の家族一同を集めた親戚会議にもなりましたよ。大博打を打って芸の道に生きるわけですから。
でももう辞表を出してしまっていたので、それっきり暫くは愛想つかされてしまい、親戚からはどこの馬の骨?状態でしたね(笑)。
落語との出会い。そして連ドラ出演
―新たな可能性を求めて動いたことが人生を大きく変えたそうですね。
芝居と音楽活動を続ける中で自分に限界を感じていました。当時のりんけんバンドは人気絶頂を迎えていましたが、辞めるならば今しかないと。
人気が落ちてから辞めると薄情と思われるような気がしたし、人気絶頂で辞めれば自分の代わりはいくらでもいると思ったのでこのタイミングだなと思っていました。
自分を動かした原動力はライブで東京に来る度に、イッセー尾形さんの一人芝居や、色んな劇団の舞台を観ていて、ああやっぱり自分は芝居が好きなんだなと再確認したことが大きいですね。
辞める時は大喧嘩でしたよ。林賢さんから認めてもらうまで10年はかかったんじゃないかな。
でも自分はミュージシャンではなくて芝居人として生きていきたいと貫き通しました。
最初に一人芝居のステージに立ったのが当時那覇にあった伝説的な小劇場「沖縄ジァンジァン」。自分でも驚くぐらい新聞に大きく取り上げてもらいました。
その記事を見た林賢さんから「お前に辞められるのは癪にさわるからクビにする」と連絡があって。きっと林賢さんなりの優しさじゃないかな。
その頃に沖縄ジァンジァンで寄席を開いていたのが、当時二ツ目だった立川志の輔師匠でした。
古典落語を見事なまでに面白く作り変えた高座は本当に衝撃的でした。
それまで落語はあまり観たことがなかったけども、伝統芸能をきちんと今の若い人達にも伝わる面白さにしているし、当時の江戸の様子を想像させる話芸は芸術の域に達していました。
その一方で、自分は沖縄の事を全然知らないなという思いも湧き上がってきました。これを落語に当てはまることはできないか?というのが今にいたる“沖縄落語”へのきっかけです。
意気込んで志の輔師匠へ弟子入りを頼んだのですが「30過ぎて弟子入り?今から江戸弁を勉強する気はあるのか?」と聞かれて。
自分も世間知らずでしたね。「いや、全然ないです。この喋りで沖縄落語をやりたいんです」と伝えたら「それは落語と言わない」と一蹴されて。
でも面白いと思ってもらえたのか分かりませんが、事務所の出入りだけは許してもらいました。
それから1週間、東京の事務所を訪れては今までの志の輔師匠の映像ライブラリーを朝から晩まで観て勉強して、沖縄に戻ってすぐに個人事務所を立ち上げました。
先走ったかと思われるかもしれないけども、自分には確かな自信がありました。
それはりんけんバンドが東京進出して「ネーネーズ」と共に本土復帰20周年のワールドミュージック人気の流れに乗って売れている姿を見ていたから。
本土の人間が意味も分からないウチナ―グチの音楽を聴いて狂喜乱舞するなら、俺がウチナ―グチで落語や芝居をしても、いつか認められて沖縄文化にも注目される日がきっとくるはずだと。
それで本土復帰30周年を見据えて沖縄と東京を往復する日々が続きました。7年ぐらいはそんな生活を送っていましたが、体力的金銭的にもやはり簡単ではなかったですね。
沖縄では琉球放送のお笑い番組「お笑いポーポー」(1991年~1993年)を始め、メディアへの露出も増えていたのでなんとか生活は出来ましたが、いつまでも続ける訳にはいかないなと軌道修正を考え始めた時にNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」の話が来たんですよ。
すごいタイミングですよね。
振り返ってみると沖縄のNHKでも番組出演していた縁で、連ドラのプロデューサーが「今度沖縄を題材にしたドラマを作りたい」と紹介を受けて一度会っていたんですよね。
その方が僕の東京での一人芝居を観に来てくださっていて「ちゅらさん」で沖縄ことば指導を出来る人を探していたみたい。
そこにはNHK大河ドラマの「琉球の風」(1993年)で歴史監修を務め、りんけんバンドを通じて交流のあった琉球大学名誉教授の高良倉吉先生の推薦もあったようです。
だからもし東京で芝居をしていなかったら、ドラマへの出演も無かった。色んな縁とタイミングが重なった結果だったわけです。
“外様弟子”でも嬉しかった
―沖縄落語も磨き続けていたそうですね。
役者をしながらも志の輔師匠とは繋がっていて定期的に沖縄ジァンジァンでも高座を開いていましたが、2000年に沖縄ジァンジァンが閉館してからなかなか落語公演が出来なかったんです。
そこで今度僕がプロデュースするので良かったら是非と志の輔師匠に声をかけました。
人の話を聞くのが苦手な沖縄の大人が2時間半飽きさせない師匠の技術もさることながら、長い話でも面白ければ人は聞くんだということを証明したかった。
その事は彼が真打になって全国メディアで活躍するようになって証明されましたけどね。
そういう関係でしたが、2年前ぐらいになってやっと「お前は外様(とざま)弟子」だと言ってくれて。
「沖縄落語でもなんでも勝手にやれ」とようやく自分の存在を認めてくれました。
正式な内弟子ではないけども沖縄で公演をおこなう際には必ず声をかけてくれて、前座として会場を温める役割を任してくれたことが嬉しかった。
「ちゅらさん」への出演が決まって報告した時には「奇跡だ。お前の喋りでまさか東京まで上がってくるとは想像もしなかった」と言ってくれました。
師匠も若い頃に故郷の富山をネタにした落語をやって全然受けなかったという過去があるので、東京で地方ネタをする難しさを知っていたのでしょうね。
だから沖縄を軸に東京で活動を続けてきた僕の事を「奇跡だ」と言ったんだと思います。
東京で舞台に立つ時は必ず観に来てくださって、沖縄落語の事も「石の上にも3年じゃないけども、なんか形になっている気がするよ」と言ってくれた。
改めて物事を続けることの大切さを知った気がします。
―そして2022年のNHK連続ドラマ「ちむどんどん」に出演と沖縄ことば指導として関わることになりました。
本当に有難いですよ。復帰30周年で「ちゅらさん」、40周年で「テンペスト」、50周年で「チムドンドン」と、節目節目でNHKの沖縄ドラマに関わることができたことは幸せです。
でも自分でも狙っていましたし、東京で「沖縄と言えば藤木勇人だ」と言われるぐらいまでなってやるという思いで行動し努力も重ねてきたことが道を開いたと思います。
おそらく連ドラ出演もこれが最後になるんじゃないかな。だからやる以上は僕にとっても沖縄にとっても答えが出る内容にしたいですね。
継続こそ力なり
―最後に読者にメッセージをお願いします。
振り返ってみると、よくこの道で生きてこられたと思いますよ。無茶苦茶な選択も多々あったけど、有難いことにその都度、周囲が必要としてくれた。
多分、僕の頑張っている姿を見て神様もこの道で生かしてくれたんでしょうね。それが60歳になって分かった気がします。
東京は多くの智恵と技術が集まっていい仕事ができる。良い人にも出会えばいい答えが返ってくる場所だと思います。
地方出身者が集まってできた街なので、沖縄から出てきたと別に気負う必要も全然ないですよ。
大切なのは感謝の気持ちを持って物事に一生懸命に取り組むこと。そして続けることです。
やはり「継続こそ力なり」ですよ。単純かもしれませんが、これが目標達成への一番の近道だと思います。
志ぃさー(しぃさー)
藤木勇人(ふじき・はやと)
1961年1月9日生まれ。沖縄市コザ出身20代で郵便局保険外務員をしながら、アマチュア劇団「笑築過激団」、音楽バンドのりんけんバンドメンバーとして活動。沖縄のメディアを中心に人気を得る。30代で独り立ちして落語家の立川志の輔に師事。以降、沖縄ことばを落語に生かした「うちな~噺家」として活動する。高座名は志ぃさー。2001年NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」への沖縄ことば指導と出演を契機に全国区の知名度を得て、俳優としても活動の場を広げ、コメディアン、随筆家、琉球文化研究者など幅広い顔を持つ。2022年NHK連続テレビ小説「ちむどんどん」への出演と沖縄ことば指導担当が決定した。
【公式サイト】うちな~噺家 志ぃさー 藤木勇人 http://shiser.jp/
藤木さん、お話ありがとうございました!
藤木さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は、「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。
コメント