そう語るのは神奈川にて鍼灸整骨院を経営されている當眞寿士さん。
現在の道を志すきっかけになったのはお母さんの愛ある励ましや強さにあり、「世の中で頑張るお母さんに元気でいてほしい」という思いを抱いて活動されています。
そんな當眞さんにこれまでのキャリアと次世代へのメッセージを教えていただきました。
「診る」仕事との初めての接点
―現在のお仕事について教えてください。
神奈川県川崎市宮前区鷺沼にある「とうま鍼灸整骨院」の院長として頑張るママさんの産前産後の骨盤矯正を中心に整体、鍼灸治療、美容矯正を行っております。
―沖縄ではどんな幼少期を過ごしていましたか?
警察官の父親と専業主婦の母親の元、三男一女の三男坊として産まれました。上の2人が野球をやっていたので強制的に地域の少年野球チームに入部させられていましたね。本当は当時サッカーブーム真っただ中だったので、サッカーをやりたかったんですけどね(笑)。
幼少期はとてもひょうきんな子でしたが内地に来て都会に染まってしまい、面白くない人間になりさがってしまいました。冗談です(笑)。
中学の野球部時代に腰の大ケガ(腰椎分離すべり症)をしてしまい、腰の痛み、脚のシビレがひどくなり寝るのも辛くなりました。
そこで整形外科、整骨院、鍼灸院、カイロプラクティックと通院するようになったことが整骨院の先生を目指すきっかけになりました。
―内地の大学を選んだ理由について教えてください。
「兄達と同じ大学に通って欲しい」という親の思いがありましたが、反発する気持ちのほうが強い子だったので「実家を出て自分のやりたいように生きよう」と強く思うようになり内地を選びました。
1ヶ月でホームシックに・・・
―初めて親元を離れた内地での生活に不安はありませんでしたか?
新しい環境への順応や勉強、友達作りに精を出すあまりにどこかで無理をしていたんでしょうね。突然ホームシックになりました。電話での対応で察知した母がわざわざ埼玉に来てくれて色々と話を聞いてくれました。
その上で「遠く離れてもちゃんと見守っているからさ」と優しく諭してくれたことで、だいぶ気持ちが落ち着きました。
大学生活では積極的に自分から話すようになれたことで友達も増え、気が付けば大学生活をエンジョイしていましたね。
母の病気が教えてくれたこと
―その後に大きな転機が訪れるのですね。
大学1年のときに母が癌であるということを知らされました。医師からは余命1年と宣告されていたそうです。
母は体重も落ちたけど意外だったのは病気に対して冷静だったこと。女性として母親としての強さを改めて実感しました。
次男と二人で交代しながら病院で看病をしていた時に「俺は自分のやりたい事で人生を選びたいから救急救命士になる」と打ち明けられました。
きっと母の状態が悪くなって緊急搬送された時に医療の現場を目の当たりにして志したのだと思います。
兄からは「もしお前が現状に疑問を感じてるなら早めに方向転換した方がいい。医療系とかに興味があれば自分で情報収集してみろ。母さんの事はある意味、転機かもしれないんだぞ」という話をされました。
自分の中では今までの経験がリンクした気がして、はっきりと進むべき道が開いた気がしました。
その数ヶ月後に母は52歳で天国に旅立ちました。 生前、病床の母に「俺、大学辞めような。整骨院とか人を診る仕事とかが向いてるはず」と打ち明けたときに母は静かに「頑張りなさいね、あんたなら大丈夫よ」と言ってニコッと笑ってくれたことを今でも鮮明に覚えています。
―その後は新たな目標に向かって一歩を踏み出されます。
中学生の時にケガをしたことで整骨院に通っていたことがありました。人のケガや痛みに対してだけでなく色んな悩みも相談できた先生のおかげで、治すだけじゃなく喜びや幸せも与えてくれるこの仕事に就きたいと思うようになりました。
目標が決まったことで大学卒業まで待てなかったので迷うことなく中退を決めて沖縄の専門学校に通うことにしました。
再び関東へ
―専門学校での3年間を経て再び沖縄を離れる決断をされました。
内地生活への挑戦が中途半端に終わったことに心残りがあってもう一度チャレンジしたいという気持ちがあったんです。
専門学校の時に関東での整骨院でインターンシップを経験したこともあり、就職は関東に決めていました。その後は東京の整骨院、クリニックで8年ほど経験を積みました。
関東の生活にも馴染んできて生活の利便性や質の高い情報が集まるこの地から離れることがもったいないと思うようになりましたし、様々な先生との出会いやセミナーを通して出会った仲間たちともっと勉強してこの業界を盛り上げていきたいという気持ちも出てきました。
学生時代はあれだけ勉強が嫌いだったのに不思議なものですよね(笑)。
全てのお母さんの力になりたい
―その後、独立を果たされます。
独立を決意して開業するに至った経緯は、奥さんも鍼灸指圧マッサージ師だったので一緒にやろうよと。
ナンクルナイサー(なるようになる)、やるだけやって潰れたら別の仕事を探せばいいさ~♪くらいの気持ちで開き直ったのが良かったのかも知れません。
「絶対に認められて人に必要とされる存在に俺はなる!」と決めて走り続けて、お陰様で今年5周年を迎えることができました。
婦人科の施術を専門的に行いたいと思ったのには母の存在が大きかったですね、やっぱり。
お母さんがケガや病気になると本当に大変じゃないですか。なので世の中の頑張るお母さんには「いつまでも元気で笑顔でパワフルに生きて欲しい!」という私の願いも込めて施術にあたっています。
僕たち治療家は医師ではないですが、事前にケガや病気になりにくいカラダづくりをお手伝いすることは出来ます。
この仕事にゴールはありません。時に患者さんからご指摘やご意見を頂くこともあり、様々な人に支えられて今があるんだなぁと実感することがよくあります。
大きな壁に何度も何度もぶつかってきましたが、こうやって自分にとっての天職に出会えたことに親、兄弟、サポートしてくれる仲間には常に感謝しています。
5年以内に沖縄支店を
―今後の目標を教えてください。
まだまだ僕も勉強が必要な身ですが、今後は後身に技術を伝えていくことも大事だと思っています。
5年以内の目標として地元沖縄への出店も考えていますし、率先して道を切り開いていく存在になりたいです。
―最後に読者にメッセージをお願いします。
内地で経済活動をしていく上で大事なことは「情報収集」と「行動する習慣」だと思います。
何か目標が見つかった時にそこに到達するためには自分で動いて情報を集める必要があります。時としてその情報が目の前にあったとしても、自分の知識不足やスキルがないと見過ごしてしまう事も多々あります。
ある程度、将来の未来図を描けたとしてもその通りに行く人はほとんどいません。どこかで必ず壁に当たるはずです。そして、その壁に何度も立ち向かい乗り越えた事で、達成感と今まで見えてこなかった景色があるはずです。
僕は沖縄を出て違った景色を見ることで色んな事に気づかされました。
これからの社会何が起こっても不思議ではありません。どんなに社会が混乱したとしても日頃から率先して行動する習慣が備わっていれば着実に前に進むことができます。
どんなに小さなことでもいいので行動習慣を身につけましょう。そうすれば大抵のことはポジティブに乗り越えられます。
最後に内地で仕事をしたいと志している人たちに伝えたいことは、自分に何が足りないのか、何をしたいのか。究極に言うと「自分は何者なのか?」を問いかけて、積極的に模索していってほしいと思います。
當眞寿士(とうま・ひさし)
1984年9月9日 宜野湾市生まれ。 西原高校卒業、駿河台大学経済学部中退、琉球リハビリテーション学院柔道整復師学科卒。 東京、神奈川の整骨院やクリニックで経験を積み、2015年に神奈川県川崎市鷺沼にとうま鍼灸整骨院を設立。鍼灸あん摩マッサージ指圧師の夫人と共に、妊活、マタニティー、産後の骨盤矯正など婦人科系の治療を中心に多くの患者さんから支持を得ている。また、独自の理論に基づいた筋膜リリースマッサージには定評がある。
詳しくはhttps://touma-bs.com/まで。
當眞さん、お話ありがとうございました!
當眞さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は、「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。
コメント