「やりたければまずチャレンジ」高橋並子さんの仕事論(屋形船あみ達女将)

高橋並子さん

「まずはチャレンジ」

こう語るのは、大正5年から続く屋形船の船宿「あみ達」の女将として働くウチナンチュ、高橋並子さん(旧姓:金城)。

運命の出会いによって入った船宿の世界に最初は戸惑いながらも、やがてテイクアウトやネット販売、業界初の「スイーツ屋形船」など斬新なアイディアを生み出し、屋形船の魅力をより多くの方に伝えるべく活動されています。

そのキャリアと、仕事や沖縄への思いを教えていただきました。

目次

高橋並子さんの生い立ち

高橋並子さん

―沖縄ではどんな幼少期を送ってきましたか?

女性5人男1人の6人姉弟という大家族で育ちました。事業家の父は一攫千金を夢見ては次々と事業を興していたのですが、その分の失敗も多くあったようで・・・常に母は家計に苦労していたと思います。

小さい頃は夕飯がポーポー(沖縄のパンケーキ)だけという日もありました(笑)だから家族で支え合おうという絆は強かったですね。

私の大学進学費用も半分は奨学金で、半分は消防士になったばかりの兄が面倒を見てくれました。

上の2人が国際結婚をしていた影響もあって漠然と海外への憧れもありましたし、姉が先に東京で生活をしていたことから中学生ぐらいから将来は沖縄を離れて暮らしてみたいという思いがありました。

それで大学は推薦入学で東京の桜美林大学国際学部に進みました。

沖縄と本土の家族の在り方

―東京での生活はどうでしたか?

姉と一緒に生活を始めたのでホームシックにはならなかったのですが、言葉のイントネーションの違いには最初戸惑いましたね。

どうしても沖縄のなまりが出てしまうので、無理をして標準語を使おうとしていたと思います。

あとは自転車がメジャーな移動手段であったこと。沖縄では全く自転車を乗っていなかったので、最初は乗るのが恐ろしく下手で、友達にも驚かれました(笑)。

あと友人の家族との接し方を見ていて感じたことなのですが、沖縄と本土の家族の在り方が違うなと感じました。

沖縄は家族や親戚間の繋がりが強く、互いに助け合って生きるのに対して、本土の家族は個人主義で自立している印象を受けました。

勿論それぞれに良し悪しはあると思いますが、私は沖縄の家族間の強い絆は胸を張って良いと思っています。

屋形船との出会い

屋形船

―その大学で運命の出会いがあったようですね。

そうなんです。大学3年の時に配膳のアルバイトをしていたのですが、派遣された先が今の主人が4代目として働く大正5年創業の船宿あみ達でした。

当時、屋形船は沖縄にはなかったのでテレビでしか見た事がありませんでしたが、ちょうどお花見の時期で屋形船は書き入れ時。川の上から眺める川沿いの満開の桜が本当に綺麗でした。

お客さんは連日満員で厨房は戦場状態でしたが、その時に優しく接してくれた4代目に良い印象を持っていて、何度か派遣されるうちに食事に誘われて交際に発展しました。

大学卒業後はソフト部品メーカーで営業事務として1年半ほど働いて結婚。妊娠を機に退社してあみ達の若女将として働くことになりました。

最初は無理していました

―若女将として苦労されたことはありますか?

サラリーマンの世界とは全く違いましたね。船宿は完全な男社会でした。また私はやり手の女将さんは怖くなければいけないと思い込んでいたので、自分も社員に対しては厳しく接しなければと無理をして怖い女将を演じていました。

でもやはりそんなやり方ではうまく行きませんね。コミュニケーションがギクシャクすると職場の雰囲気や仕事内容にも悪影響が出てしまって、ああこれではダメだと考え方を改めました。

そこで実践したのは自分の家族と接するように社員に接すること。

あみ達スタッフの皆さん

彼らは屋形船を愛していて、幸せになるために働いています。ならば私も彼らに対して子供と同じように愛情を注ごうと。あみ達で働くみんなが家族という、沖縄ならではのおおらかさも役に立ったと思います。

そこからは自然と円滑なコミュニケーションが生まれ、彼らも積極的にアイデアを出してくれるようになりました。私も英語力やSNSを駆使して外国のお客様を誘致したりしてチーム一丸となったことで、前年比1.5倍の売り上げを記録。同業他社からも一目置かれるまでになりました。

もっと多くの人に屋形船を楽しんでもらいたい

―順調に業績を伸ばす中でコロナ禍が襲いました。

新型コロナウイルスの影響により、2020年のお花見シーズンを前に埋まっていた予約が全てキャンセルとなりました。またその後に第1回目の緊急事態宣言が発令され営業自粛を余儀なくされました。

2011年の東日本大震災の時には5月になって客足が戻ってきたので、数か月の我慢と期待をしていたのですが、宣言が解除されてからもほとんど予約は入ることなく、売り上げも90%減。あみ達創業以来の危機に立たされました。

―その後はどの様にかじ取りをされてきたのですか?

社員全員で何度も話し合いを持って何ができるか?とアイデアを出し合いました。持続化給付金や雇用調整助成金など申請できるものは全てした上で、天丼のテイクアウトやデリバリー、ECサイトを通じた天ぷらセットも販売し、手が空いている社員は知り合いの塗装業に派遣するなどして、とにかく雇用を守ることに全力を尽くしました。

加えてこの機会に、これまでは夜の運航が中心でどこか敷居の高かった屋形船のイメージを払拭するべく、スイーツをメニューにした少人数で短時間による昼運航の屋形船、「スイーツ屋形船」を始めるべく、クラウドファンディングを実施しました。

目玉のスイーツは4代目の高校時代からの同級生で、世界的コンクールで優勝したパティシエ、五十嵐宏さんに考案してもらうなど、あみ達ならではの視点で新しいサービスを打ち出していきました。

従来のイメージを一新するピンク色にカラーリングされた屋形船には隅田川の水面をモチーフにした「まるあ柄」と呼ばれるデザインが使用されており、墨田区のモダン認証も受けました。まだまだ屋形船の魅力を広げることは出来ると思っています。

ランチクルージング

2021年年頭に2度目、4月末から3度目の緊急事態宣言が発令されたことでやむなく休業を余儀なくされていますが、必ずまた心置きなく笑顔でお客様をお迎えできる日が来ると信じています。

屋形船の魅力は非日常。あみ達の伝統を守りつつ新しい価値を提供しながら一人でも多くの方に体験して頂けるように、このコロナ禍を乗り切りたいと思っています。

<あみ達の屋形船を動画でご紹介>

屋形船の船宿あみ達 公式サイトはこちら

東京で気づいたゆいまーる精神の大切さ

―高橋さんにとって東京はどんな街ですか?

一言で言えば色んなチャンスがある場所ですね。人も情報も集まりますし、経験や勉強を通して成長できる街だと思います。

一方で、沖縄にいるときには当たり前で気づいていなかったのですが、母となり若女将として守るべきものが出来ると、沖縄ならではのゆいまーる精神の偉大さを再確認しました。

父も母も家族みんなが笑顔でいるために必死に働いていてくれたんだなと。

東京は故郷を離れて夢の達成の為に働いている人が多い街ですが、生まれ持った心は大切にしていこうと思います。

―最後に読者にメッセージをお願いします。

私も沖縄を出る前は不安で一杯でしたが、出てきたからこその体験や出会いがありました。新しい事をするには何でも負荷はかかりますが、その分、必ず成長につながります。

母はよく「やりたいことがあったらチャレンジしてみなさい。やらなくて後悔するよりやってみて失敗した方が沢山得ることがある」と言ってくれました。本当にその通りだと思います。

皆さんには想像以上の可能性が眠っています。決してやる前に諦めることなく、どんどん行動して自分を磨いていって欲しいと思います。

高橋並子さん

高橋並子(たかはし・なみこ)

1979年6月8日那覇市生まれ。興南高校から桜美林大学国際学部に進学。配膳アルバイトを通して出会った船宿のあみ達の4代目と結婚。若女将となる。英語力やSNS、クラウドファンディングなどを利用して従来の屋形船になかった新しいサービスを続々と展開。2020年秋には業界初となるスイーツをメニューとした昼運航の「スイーツ屋形船」が就航。100年以上続く老舗屋船宿に新たな価値を吹き込んでいる。旧姓は金城。

「あみ達」公式サイト:https://www.amitatsu.jp/

平良英之

高橋さん、お話ありがとうございました!

高橋さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

東京沖縄県人会広報理事。「東京都沖縄区」代表。AFP、二級ファイナンシャルプランニング技能士、住宅ローンアドバイザー、証券外務員2種。1983年生まれ。宮古島市出身。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次