どうせ若いうちは失敗しかないから怖がる必要はないですよ!
そう語るのは、元・吉本芸人で現在は「紙芝居師ヤムちゃん」として活動する山田一成(やまだ・かずなり)さん(那覇市出身)。
国内外での8000回を超える口演実績、紙芝居によるオリンピック・パラリンピックの招致やパラスポーツ普及活動など様々な経験を通じて得られた「自分を表現すること、心の足かせを外すことの大切さ」。
紙芝居という芸能への思い、 次世代へのメッセージなど広く語っていただきました。
いじられて人を笑わせる快感に目覚める
―沖縄ではどんな幼少期を過ごしてきましたか?
小さい頃からずんぐりむっくりの体型もあって、小学校では周囲からよくからかわれていました。
自分の記憶にないですが、いじめられていたようです。でも人を笑わせることが大好き。気が付けば自分の体型を逆手にとって笑いを取っていました。
でも体型のわりには運動神経は良くて俗に言う“動けるデブ”だったので、進学した那覇高校ではバスケ部に入りました。
でも周りはすごい人ばかり。その頂点は1つ上の先輩で現在、お笑い芸人の「キャン×キャン」として活躍するゆっきー(長浜之人)さん。
バスケだけでなく、笑いのセンスもあって、生徒会長も務めるなど無敵のスターでした(笑)。
部内でも盛り上げ担当だった自分はみんなから色々いじられまして、周りが笑ってくれました。
ここから本格的に人を笑わせる快感に目覚めましたね。自分はいじられて花開くタイプなんだと。
―高校卒業後の進路はどのように決めましたか?
運動が好きだったこともあり、理学療法士や放射線技師に興味がありました。でも試験は不合格。
家庭の事情で浪人はできなかったので、どうするか悩んでいる時に母から「あんた海外に行ってみたら」と。
自分も親元を離れたかったのでそれも良いかなと思い、海外留学の説明会に参加しました。
最初は試験か何かあるのなと思っていたら「すぐ行けます」と。拍子抜けしましたよ。
最初は「怪しい?」と思いながらも熱心に海外生活の素晴らしさを説いてくれたし、ちょうど円高のタイミングで学費も低く抑えられることもあったのでカナダ留学を決めました。
―初の海外生活はどうでしたか?
英語が全く話せない状態で行ったので最初はしんどかったですね。数ヶ月して耳から慣れていったのですが、話せるまでにはなかなか。
田舎町の学校だったので英語を勉強するには最適な環境だろうと思っていましたが、行ってみたら日本人だらけ(笑)。
同じように海外留学で集まったんでしょうね。確かに日本人同士でいると楽ですが、それでは行った意味がない。だから僕はカタコト英語でも臆せずにどんどん現地の学生の輪の中に入っていくことにしました。
あるパーティーに参加した時でしたか。音楽がかかってダンスタイムになって、持ち前の出たがり精神が出たんでしょうね。みんなの輪の中心に立って1人で踊り始めたら「何だ!?この変な日本人は!?」みたいになって、みんな大ウケ。
大喝采を浴びながら記憶が飛ぶぐらいに踊り狂いましたよ。
そこからですね、周囲の反応が全然変わって、友達も一気に増えました。
現地TV局でリポーターに
―さらに今につながる転機があったそうですね。
基礎英語を学ぶ2年間を終えて、日常会話も問題なく話せるようになった頃でしょうか。たまらなく日本が恋しくなったんです。
よく海外に出ると日本の素晴らしさを再認識するというじゃないですか。すっかりホームシックになってしまって。
その時に沖縄の家族から送られてきた物資の中にテレビの録画テープが入っていて。
バラエティー番組が中心だったと思いますが、カナダ人の友達も日本語が分からないのにずっと爆笑していて、改めて日本のテレビのクオリティの高さを感じました。
僕自身、子供の頃はテレビっ子でしたし、人前に立って人を笑わせる事をするようになったのもテレビの影響でしたから、これはもしかしたらこれは職業になるかな?と思うようになりました。
ちょうど専攻学科を選ぶタイミングで大学にテレビ学科があったことも幸運でした。大学で編集技術を学び、4年生ではラジオトークや地域ケーブルテレビのリポーターに挑戦しました。
どうせやるなら自分にしかできないことをやろうと、日本のバラエティー番組のように食レポやロッククライミングに体当たりで挑戦して、失敗を含めたリアクションで笑いを狙いました。
ハロウィンの時には全身緑色のカッパ姿になって卵を通行人に投げつけるという、メチャクチャもやってましたね。
カッパを知らないカナダ人にしてみたら恐怖以外の何物でもないでしょうけど(笑)。
とにかく人と違うことをするのが好きで「こんなアホな事をやるのはお前しかいないな」と言われるのが快感でしたね。
周囲からも「コメディアンなってみては?」と言われて「憧れのナインティナイン岡村隆史さんみたいになりたいな」と本気に芸人を考えるようになりました。
デビュー後つかんだチャンス。しかし…
―帰国後すぐに行動を起こしました。
帰国して吉本総合芸術学院(NSC)を受けようとしたのですが、その年の募集はすでに終わっていたので、番組制作会社に入社してADとして働きながらお金を稼いで22歳でNSC8期生として入学することができました。
同期にはスリムクラブやマヂカルラブリーなどがいます。
最初に組んだコンビは半年で解散したのですが、次に組むことになった相方が岡村さんのカメラテストのパフォーマーを務めるぐらいそっくりで、彼となら何か面白いことができそうだとコンビを組んで、「ブルックリン」として活動することになりました。
相方がボケて僕がツッコミ役という形で徐々に結果も出るようになり、当時人気番組だった「エンタの神様」を始め、受けたオーディションすべて受かるような状態が続いていました。
でもその先が突き抜けられるか、そうでないかの分かれ目ですよね。
番組プロデューサーやディレクターが求めることに対して僕らは応えられなかった。
同郷で同期のスリムクラブがどんどん売れていく中で、僕らは徐々に声をかけられる頻度も少なくなっていって。悔しかったですね。
思い返せば、自分が目立ちたがり屋なのに、押し殺して相方を立てるツッコミ役にならないといけない。それが知らず知らずのうちにストレスになっていたんだと思います。
しばらくは我慢していましたが、かなりしんどかったですね。
そうなると相方と歯車がかみ合わなくなり、コンビ仲も悪くなって7年目で解散しました。
言いたい事をちゃんと言えなかったことが一番の原因だと思います。
紙芝居で年収1000万円!?
―まさに人生の岐路に立たされましたね。
その時に3つ選択肢がありました。1つは沖縄に戻る。2つは吉本新喜劇に進む。3つ目は東京でまたテレビ制作会社に入る。この三択でした。
そこでどうしようかなと思っていたら、テレビで放送されていた紙芝居師の正社員オーディションに目が留まったんです。
最初は「変な仕事があるもんだ」と思って観ていたのですが、年収がなんと1千万円!
目の色が変わりました(笑)。これはチャンスだぞと。
自分も芸を続けてお客さんの前に立ちたい思いがあり、高い収入が入る事でほぼ嫁に食わせてもらっている生活からも脱却できるぞと思いましたね。
1回目は人気殺到で終了していたので2期目の募集チャンスを毎日チェックして調べて、募集開始と同時に速攻で応募しました。
オーディションに集まったのは東西合わせて300人!
紙芝居師の師匠の前で挙手して芸を披露していくのですが、そこでも同時にダメ出しもされる。
ほとんどの人が素人だったので、それならばと、芸人として培ったハイテンションな芸を披露して一発合格できました。
30歳で紙芝居師の正社員として入社するのですが、実際紙芝居師については全くの素人。フリップ芸はやっていましたが、その違いが分からなかった。
なので師匠に「いろは」を教わろうとしたのですが、諸々の事情で師匠が会社をいきなり離れてしまったんです。
そりゃ「え!?」となりますよね(笑)
でも合格者したメンバーみたらほぼ全員が芸能関係者。声優、役者、落語家、講談師など人前に立つプロばかりでした。
その中にいた構成作家の方が「これだけの才能が集まっているなら劇団にしよう」と発案して2009年に「渋谷画劇団」が旗揚げされました。
紙芝居で使用する画はマネジメント会社「漫画家学会」に所属する漫画家が書いたものなので、一流のクオリティ。
僕は漫画家学会の社員になって雑用しながら紙芝居師としても活動を開始。児童館や公民館、お祭り、ショッピングセンターを周りました。
僕の紙芝居は普通の紙芝居とは違い、演者自身が前に出て演じながら進めていくスタイル。紙芝居師が画より目立ってはダメというスタイルからすれば、異色ですよね。
僕なんか最初の渋谷画劇団のネタ見せ会で、画の書かれたTシャツを何枚も重ね着して、お客さんの前で一枚一枚脱いでいく“Tシャツ紙芝居”をやっていたぐらい尖っていました。
もう紙すら使ってないというね(笑)
覆面紙芝居誕生!
―かなり異色の存在でしたね。そこからどのようにして現在のスタイルにたどり着いたのですか?
漫画家学会に所属する漫画家のジミー須田さんが僕に「君、面白いね」と興味を持ってくたんです。
元々僕はジミー先生の描く「お父さんはミナクルマスク」が大好きで、他の紙芝居師が担当していた紙芝居を自分ならばもっと面白おかしくできるのにと、かねてから思っていました。
なのでこれはチャンスだと思い「先生!自分にやらせてください!」とお願いしたら、ジミー先生は「君が手を挙げるのを待ってた」と快諾。
そこからミナクルマスクのコスプレをして、アクションや効果音を取りいれたショー形式の紙芝居をするようになりました。
コスプレと素顔の両方を使い分けながら、企業や団体の要望に応じたストーリーを作るなど、どんどん世界が広がって、ついにはカナダ時代に培った英会話を生かしてフランスやアメリカ、オランダなどの海外公演に行くこともありました。
オランダで和太鼓&紙芝居の口演を披露した時は、3000人のスタンディングオベーションに包まれるという素晴らしい体験もさせていただきました。
弟子のかみはるさんとの出会い
―その後、新しい出会いがあったそうですね。
2011年からは東京アナウンス学院の講師としてだけでなく、若い世代に表現力向上の為に紙芝居を使う私塾を開催するなど普及にも携わるようになった頃、2020東京オリンピック・パラリンピックの招致委員会から声がかかりました。
「パラスポーツ認知向上の為にPR紙芝居を作ってくれないか」と依頼を受けて全国を回ることになりました。
でも関心度は低く、2012年のロンドンパラリンピックで女子日本代表が金メダルに輝いたのですが、直後の国内大会では客席はガラガラ。
これはやばいぞと思って会社としても本腰を入れてパラスポーツの認知向上に関わることになりました。
そのタイミングで私塾に参加していた、かみはるという若い子がいて。
彼女は足に障がいを抱えていました。ならばこの機会に彼女を交えて一緒にやろうとなって、弟子の彼女と2人でパラスポーツを取材して紙芝居で競技の魅力を伝える活動をスタートさせました。
活動の中では、かみはるの障がい者としてのリアルで切実な体験が生きるので、お客さんは真剣に聞き入っていましたね。
彼女の生の声を伝えて、僕が賑やかしで場を盛り上げる。そういう意味では良いコンビになったと思います。
2016年からは渋谷区と提携して子供達にオリジナル紙芝居を披露する機会ができ、東京都からは東京五輪・パラリンピック教育支援プログラムにも選ばれました。
活動を継続する中で驚いたことは、3歳の子供が義手と義足の違いが分かるようになったことでしょうか。
やはり続けることは大切だなと。
かみはるも過去の辛い体験から最初は痛くても杖を使わずにショーに立ってずっと障がいを隠していました。
僕が「障がいも個性の1つ。一度杖をついてお客さんの前に立ってごらん。僕が演出してあげるから」と伝えてその通りにさせたら、終演後におばあちゃんと子供が寄ってきて「すごい良かったよ。頑張ってね」と感想をくれて。
かみはるは号泣ですよ。自分で壁を作っていたのを悟ったんでしょうね。
そこから杖をついてステージに立つようになりました。お客さんが教えてくれることは沢山あるんですね。
その後、僕は初心者障がい者スポーツ指導員の資格を取り、平日はパラリンピック普及紙芝居、週末は企業案件など、ほぼ休みなしで活動を続け、2021年に延期となった東京五輪・パラリンピックでは僕らは聖火ランナーとして参加することができました。
今後もパラスポーツの魅力を広げるべく、活動は継続させていきます。
紙芝居の概念を変えたい
―改めて紙芝居の魅力と今後の目標を教えてください。
紙芝居はお客さんとの掛け合いやアドリブを通じてストーリーを作る最強のコミュニケーションツールだと思います。
だからもっとその認知度を広げたい。その為には紙芝居=ボランティアという概念を変えないといけない。
これまで「君の(紙芝居)は、紙芝居ではない」という反発の声でもありましたが、僕らがエンターテインメントに昇華させて多くの人に「紙芝居ってこんなに面白いんだ」と思ってもらう必要があります。
コロナ禍になってかなりの仕事がキャンセルになりましたが、出来ることをやろうと最近ではYouTubeで僕や家族の日常を発信するファミリーチャンネルを始めました。
それらを通じて僕自身に興味を持ってもらい、そこから紙芝居につなげていけたらと思っています。
勿論、ライブで紙芝居を出来るのが一番ですが、オンライン方式も模索中で、今後は英語を使いながら世界にも発信していけたらと思っています。
「失敗したくない」という足かせを外して
―最後に沖縄の読者にメッセージをお願いします。
僕は沖縄を離れたことで故郷の素晴らしさを再確認することができました。皆さんにも自分の原点を客観視する意味でも一度、沖縄を離れてみることをお勧めします。
もし失敗したら?
大丈夫!若いうちは必ず失敗します!
僕なんかやってきたことの9割は失敗していますから(笑)。でも都度、新しく見えてくるものがありました。
今の若い世代はなるべくレールを逸脱しないように、リスクを最小限に抑えているように見えます。社会情勢を考えれば仕方ないかもしれません。
でも振り返ってみたら、失敗に見えた選択が今に生きているんです。
そう思えるのは人によって数ヶ月後か数年後かもしれない。でもそういう体験をするためには「失敗したくない」という足かせを外す必要があります。
なんくるないさーの精神で、恐れずいろいろなことに挑戦してほしいですね!
山田一成(やまだ・かずなり)
1979年那覇市生まれ。那覇高校卒業後、カナダ・レスブリッジカレッジ(アルバータ州)に留学。
在学中に地元テレビ局でレポーターを務める。帰国後、NSC東京8期生を経てお笑いコンビ「ブルックリン」として活動(2002年~2008年)。2009年からは紙芝居師(ヤムちゃん/ミナクルマスク)として活動をおこなう傍ら、東京アナウンス学院で講師を務め、弟子のかみはるさんと共に紙芝居を通じてパラスポーツの普及に携わる。2020年5月からは娘と共演するYouTubeチャンネル「ギャー!ギャー!!Kids LAND」を配信中。
【公式サイト】https://yam-chan.com/
【Facebook】https://www.facebook.com/kazunari.yamada
【Twitter】 @hironobutaira
山田さん、お話ありがとうございました!
山田さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は「しまんちゅの翼」まで気軽にお問い合わせください。
コメント