そう語るのは数百万人に一人の難病を経験した経験をもとに、似たような苦しみを抱えた人々の支えになるべく執筆・講演活動をされている吉野やよいさん。
生死の境をさまようことで強く実感した「やりたいことを諦めちゃいけない」という強い思い、新たな人生を始められた場所・東京への思い、若者へのメッセージを教えていただきました。
(更新日:2018年12月7日)
<ご案内>
数百万人に1人のがん。壮絶な闘病生活
―現在のお仕事について
大手カメラメーカーで事務職として働く傍ら自らの闘病経験を元にした執筆活動やテレビ出演、講演活動をおこなっています。
―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?
幼少期は運動が大好きなおてんばでした。でも小学4年生の時に背中に突然強い痛みが走ったんです。病院に行っても原因は良く分からず成長痛と判断されました。でも痛みは激しくなるばかり。
大学病院で精密検査をおこなった結果、小児がんの一種である「ユーイング肉腫」が脊髄の内側に出来ていると診断されました。子供から20代位までの若い世代を中心に年間発症数は50例ほどで発症率は数百万に1人と言われています。
がんの成長速度が早いのが特徴で、私の場合は発見が遅く最も症状の重いステージ4に近かったと聞いています。そこから家族を含めた壮絶な闘病生活が始まりました。
東京の病院と沖縄を往復する生活。母もつきっきりで看病してくれ病気についても勉強をしていました。子供心に死を間近に感じる恐怖と同時に生きたい!という思いも強くなっていきました。
抗がん剤治療は本当に辛かったです。髪が抜け意識も朦朧とし、拒絶反応で吐血まで。好転と衰弱を繰り返す中一度は消えたと思われたがんが再発し、難手術の上2度の昏睡状態に陥りました。
人工呼吸器でなんとか生をつないでいる状態で家族には「いつでも覚悟を」と担当医から説明があったと言います。
私も意識が戻った時にきちんと自分の言葉を遺しておこうと、力を振り絞って何度も遺書を書き直したことを覚えています。
その後少しずつ好転に向かいましたが、リハビリは指1本を動かすことも激痛を伴いました。背中の大きな手術痕を隠すためにおこなった皮膚移植の影響でお風呂に入ることさえ地獄でした。
痛み以上に辛かったのは背中の火傷の様な傷跡。思春期の私は「こんなんじゃもう、結婚できないな」と泣いていましたが、母は背中を優しく拭きながら「いつかこの傷を見たときに、怖いとか嫌だとか言わない男性がやよいの前にきっと現れるよ」と言ってくれました。
辛い日々でしたが、元気になったら「こんな所へ行って見たい」「こんな事もやってみたい」という願いは力になっていました。
何より医師や看護師、家族の支えがあったからこそ。お陰で人の優しさを改めてかみ締めた日々でもありました。
母からの言葉「もうこれ以上諦めてはダメ」
―上京のきっかけを教えてください
がんが消え、完治となった時は高校1年生になっていました。少しずつ体力も戻り一見すると健常者に見えましたが、後遺症で体が思うように動かず悔しい思いもしました。
でも持ち前の負けん気もあって所属したバレーボール部では猛練習の甲斐もあってレギュラーを取れるようになりました。
一方でこれまでの経験を本にしてみないか?と出版社の方から誘いを受けました。私の病状からの生還は奇跡に近く「誰かの役に立てるのなら」と高2の時に闘病記を出版しました。
その影響からか病院や学校などで講演を求められることがあり、誰かの役に立てていることが嬉しかったです。
高3になって進路を決めるとなった時、私には1つの夢がありました。それは沖縄を離れて暮らしてみたいという事。
東京出身の父から大都会東京の話をよく聞かされていたので漠然と東京に憧れもあり、また叔父が早稲田大学出身だったことから、早大に自己推薦入試での受験を志しました。
私にとっては挑戦でしたが母は「やよいなら出来るよ」と応援してくれました。
でも私の高校からはそのレベルの大学への進学事例は無く進路指導の先生も難色を示していました。学校の推薦がないと受験する事ができません。
私もどうしたらいいか分からず時間だけが経ち、気がつけば願書提出期限の日になっていました。
その時に母から「あなたは病気の為に色んな事を諦めて我慢してきた。もう諦めちゃだめ」と強く背中を押してくれました。
再度決意をして学校に飛び込むと担任の先生が教室で待っていてくれました。「吉野さんなら、きっと挑戦すると思っていました」と、推薦書類を出してくれて。
そこからは車の中で急いで書類をまとめ、添付書類にはたまたま車の中にあった本のポップを貼り付けました(笑)。
足の悪かった私に代わって母が郵便局に駆け込んだのが最終消印ギリギリの17時前。 結果2次試験へと進むことが出来、それから暫くして合格通知を受け取ることができました。
改めて感じたことは「やりたい事は諦めちゃダメなんだ」。結果は相手が決める事であり、自分でどうせ無理と判断することは可能性を自分で放棄していることなんだと。
母や担任の先生の後押しがあったからこそ。本当に感謝ですね。
失った時間を取り戻す。全力の大学生活
―上京後の生活はどうでしたか?
大学生活は色んな可能性が一気に目の前に広がる、辛い時期が長かった人生で初めて報われた瞬間でした。
やりたかったアルバイトもたくさんして色んなサークルにも入りました。思ったことはすぐ行動という習慣がついていましたね。
でも1年の時は無理がたたって緊急搬送もされたりしました。それでも楽しかったです。
学費や生活費も自分で払っていました。叔父の家に下宿させてもらっていましたが奨学金や給付金をもらいながら親の仕送りは一切もらっていませんでした。
自分で払ったので分かりましたがかなりの金額でしたよ。そうすると一コマ授業料いくらという感覚が出てくるんですね。サボったり、寝たりなんかはもったいなく絶対できません(笑)。
奨学金を取るためにも成績も良くないといけないので授業も完璧にこなしていました。自分の力で通いたかったので意地でしたね。
あまりの忙しさに頭が変になりそうでしたがそれが幸せでした。それぐらい自分が取り戻したいものが大きかった。吸収できることは吸収しようと。
病気だった私を知っている人達にこんなに元気で暮らしている姿も見せたかった。120パーセントの力で走りきった4年間でした。
社会人として再び東京へ
―現在のキャリアに至った訳は?
2011年3月卒で東京の証券会社に内定が決まっていましたが、東日本大震災も重なって心配する家族の意向もあり、内定を辞退して沖縄に戻ることを決めました。
これ以上両親に心配もかけさせたくなかったですし、東京はまた機が熟したときに来ればいいと。
沖縄に戻り、社団法人那覇市医師会で自分の経験も生かせる企業検診の営業をすることになりました。
“がんサバイバー”として講演活動もおこないながら、県が策定するがん対策推進計画の委員やがんサポートブックへの寄稿、NPO法人の立ち上げなど自分が出来ることには積極的に挑戦しました。
2年半働いた頃、病気の後遺症で足が悪くなり歩けなくなってしまいました。好きだった営業から事務職に転属されることになり正直悩みました。
志半ばで東京を離れたこともあり、やりたい事をできるように行動する時期じゃないかと。やっぱり東京で社会人をしてみたかったんです。
震災時に心配していた両親も理解を示してくれ、転職サイトで応募した大手カメラメーカーのキヤノンに転職することができました。きっかけは大好きなお爺ちゃんがカメラ好きという単純な理由です(笑)。
大企業は人との関わりが薄いのかなと思っていたけど、5年働いてみて違うという事が分かりましたね。
1フロアに200名以上いますけど働き方はすごく密接で顔が見える関係ですし、抱いていた大企業のイメージが変わりました。現在は主にプリンター関連の業務を担当しています。
東京は新たな人生を始められた街
―あなたにとって東京はどんな街ですか?
朝のラッシュを経験して会社に向かう道に沢山同じ会社員が歩く姿を見て今でも不思議な感覚になります。私はこうして東京にいるんだなと。
唯一、人生の中で学校にしっかりと通えたのがこの街です。病気をしていた私を知らない人達がいるので、ある意味新たな人生を始めることができた場所であり、私の願いを叶えてくれた場所。
またこの街で生涯の伴侶となる栃木出身の主人にも出会えることができました。私にとっては第二の故郷といえる街です。
私にとって沖縄は辛い場所でした。病気を発症して学校にも通えず多くの時間を失いました。ある意味そこから逃げたかったという事もあるかもしれません。
でも社会人として東京で暮らすようになって5年が経った今、沖縄を離れたことで沖縄の事を客観的に見られるようになりました。
2ヶ月に1度は沖縄に帰っていますし、講演活動を通じて地元の子供達の顔を見るたびに喜びを感じます。やはりどこに行ってもウチナンチュの血は生きているんだなと実感しています。
今度は自分が支える側に
―今後の目標を教えてください
これからは恩返しをしていきたいと思っています。臨床心理士の資格を取って自分も力をつけて、主人と共にがんや人生に苦しむ人やその家族を支えられる立場になれたらと思っています。
私も入院している時にそういう人がいてくれたらと思っていました。医療的な立場からではなく実際に経験した身として異なる視点から苦しむ人達に光を与えることができれば幸せです。
私の経験はがんだけでなく、勉強や進路で悩む学生さん達へのカウンセリングにも役立ってくれるのではと考えています。
「やりたい事」に素直になって欲しい
―最後に沖縄の若者にメッセージをお願いします
何かやりたい事があれば難しく考えずにまず1歩を踏み出す勇気を持って欲ください。例え失敗してもそれもまた1つのいい経験になりますし、その1歩がなければその経験もできません。
もし周りに反対する人がいたら自分の素直な気持ちを伝えてみてください。貴方の事を真剣に心配している人なら夢や目標の気持ちが確かであれば、きっと伝わって応援してくれるはずです。
私は病気をした事で生への有難みをすごく感じています。病気は私から色んなことを奪ったけど、一方で色んな力を与えてくれました。だからこそこれからの時間を精一杯生きていきます。
1人1人に与えられた大切な人生です。皆さんにはどうか自分や愛する人達が笑顔でいられるような人生を送ってもらいたいです。
吉野やよい(よしの・やよい)
1989年那覇市生まれ。10歳で小児がん(ユーイング肉腫)を発症。6年間の闘病生活を東京と沖縄で送る。完治後、定時制泊高校、早稲田大学人間科学部を卒業。一般社団法人那覇医師会を経て、現在はキヤノン株式会社に勤務する傍ら、がんサバイバーとしての経験を基にテレビ出演や講演活動をおこなう。著書に「涙の向こうに花は咲く」(世界文化社)他。
吉野さん、お話ありがとうございました!
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