「夢を持って努力することからすべては始まります」
そう語るのは石垣市出身のIT事業経営者、今井恒子さん(旧姓:上原)。
ウミンチュの父のもとに育ち、負けん気の強さのもとに上京してキャリアを重ねるも二度の勤め先の倒産。
しかし逆境をバネに起業。家事、育児、仕事に加え経営者と社長業と計5つの役割をこなし、今では故郷の沖縄への貢献事業にも力を入れておられます。
そんな今井さんにこれまでの歩みと東京で生き抜くための心得、次世代へのメッセージを教えていただきました。
(更新日:2019年1月30日)
<ご案内>
ダイナマイト漁による父の逮捕。14歳で迎えた“成人式”
―現在のお仕事について
システム開発やWEB製作、技術者派遣業をおこなうIT関連株式会社「フロッサ」(本社:埼玉県)を経営する傍ら、関東沖縄IT協議会副会長として沖縄への企業誘致や、離島の子供達に教育や体験機会を提供するNPO法人「おきなわ離島応援団」の立ち上げに携わるなど、沖縄と本土をつなげる活動にも参加しています。
―沖縄ではどんな日々を送っていましたか?
糸満出身のウミンチュ(漁師)である父と宮古島出身の母の元、5人兄妹の次女として生まれました。
父譲りの負けん気の強さで曲がったことが大嫌い。よく兄や近所の男の子たちと遊んでは喧嘩をするという、方言で言うとウーマクー(おてんば)でしたね(笑)。
でも人の家や学校では借りてきた猫のような状態で、教室での発言なんてとんでもない内弁慶でしたが、小5の時に友達に誘われて学校近くにあるキリスト教の伝習所を訪れました。
そこで出会ったシスターが聖書の読み聞かせや聖書の言葉を小さなリボンをつけたカードにしてくださるなど、無口な私に優しく語り接してくれて初めて家族以外で心を開けた大人でした。
「人は美しい心で他人に接すると相手も美しい心で返してくれます」といったシスターの言葉の数々に感動をして、よし!私も生まれ変わろうと決意し、時間はかかりましたが6年生の頃には誰に対しても明るく活発に同じ態度で接することが出来るようになりました。
あの時のシスターとの出会いは本当に運命的で今でも感謝をしています。
そして中学1年生になった時に事件が起こりました。石垣島の漁師では一番と言われた父が違法だったダイナマイト漁をおこなった容疑で逮捕されたのです(後の本土復帰時に恩赦)。
本土復帰前の1970年は混沌としていて、米軍の闇物資が流通しダイナマイトも簡単に手に入るような時代でした。
父に訊くと漁師たちの間ではあまり罪の意識もなく、家族を養う為の漁法の1つだったようですが、点火のタイミングを誤って大怪我や死亡事故も目の当たりにして父はもう辞めようと思っていた矢先の逮捕だったようです。
これまで稼いだお金は罰金に消え、釈放後の父は家計を立て直す為に遠洋漁業へ出ることになりました。パラオへ出発する前夜に父から涙ながらに「家族を助けてやってくれ」と声をかけられました。
これまで厳しかった父が1人の大人として扱ってくれたことが嬉しく、私としては14歳で“成人式”を迎えた気持ちになったのを覚えています。
八重山高校入学後は部活動に励むクラスメイト達を尻目に、家事の手伝いに加えて魚市場で働く母の手伝いをしていました。私は“おさかなクラブ”と呼んでいましたが(笑)。
配達先の人達にも可愛がられましたし、何より逞しく働く母の背中を見みながら商売の基本を学べたことが大きかったですね。
特に初めてのお客さんには必ずサービスをする事で常連客になってくれるという「損をして得を取る」という商売の基本は今でも大事な基礎となっています。
その頃には父もパラオから戻り家も新築。父の漁師や模合仲間、クラスメイト達など来客の多い家でいつもにぎやかで楽しい時間を過ごすことができました。
受験に失敗も手に職を求め行動
―上京のきっかけ、また上京後の生活を教えてください。
まだ将来像も決まっていなかった事もあり、せっかく親元を離れるならば大都会の東京で頑張ってみたいと都内の短大を受験しました。
でも結果は見事に不合格!ショックよりも両親に仕送りをさせなくていいというのが正直な思いでした。
「女性も手に職をつけた方が言い」母の勧めもあり、当時国内外の通信手段だったテレックスオペレーターの専門学校に通った後に商社の通信課で念願の東京OLとしての新生活が始まりました。
とはいえフォークソングの歌詞に出てくるような三畳一間風呂なし共同トイレという住まい。慣れない銭湯通いにホームシックに襲われて涙する事もありました。頑張れ!自分!と毎日自分を励ましながら朝を迎えていたことを覚えています。
3年働き貿易会社に転職した翌年にテレックス業務のコンピューター化に伴い、通信室のリストラがおこなわれました。
そこで「これからはコンピューターの時代が来る!」と直感が働いてコンピューター会社を何社も受験しました。
未経験という事もあり苦戦しましたが、10社目で小さなソフト開発会社に採用され、プログラマーとしての第1歩を記すことができました。
勤務先が2度続けて倒産!独立への道は?
―現在のキャリアに至った訳は?
コンピューター業界に転身後1年で結婚。夫の理解も得て働きながら夜間短大の入学と米国留学も経験する事ができ、帰国後には出産も経験しました。この時は仕事だけでなく様々な事が一気に目まぐるしく動いていた気がします。
息子が1歳になった事を契機に職場に復帰。子育てをしながらという事もあり、残業ができない条件での専門職のポストはなかなか見つからず苦労しましたが、なんとか条件にあったところを見つけて働く事ができました。
ところが5年ほど経ったときに、務めていた会社が経営悪化により倒産。私にとっては出産前に務めていた会社に続き2度目の勤務先の倒産でした。
この時ばかりは自分の不運を嘆きましたが、生活もかかっている為に働かなくてはいけない。あるIT関連企業で派遣社員として働き始めました。
漠然とした不安を抱えつつ仕事を続けていたある時に同僚達からIT関連の人達を集めた忘年会に誘われました。そこで隣席になった営業マンの方にかけられた一言が大きく人生を変えました。
「今井さん、会社起されてはいかがですか?良ければお仕事出しますよ」
その瞬間に高校時代に培った商売魂がマグマのように噴出して「よーし!やってやる!」と一気に情熱が生まれました。
そこからの行動はもう早かったですね。最初は有限会社として会社を立ち上げる事を目的に定款や登記簿作成、税務署届出など司法書士の手も借りずに勉強だと思い全て1人で準備をおこないました。
どうしても分からない時は人の助けも借りながら42歳の時(2001年1月)に「有限会社フロッサ」を設立。社名は自分が大事にしている言葉の頭文字を取りました。
少しずつですが社員も雇えるようになり、家事、育児、仕事に加え経営者と社長業と計5つの役割を抱えることになりましたが、自分の会社を持てた喜びと、社員が少しでもこの会社に入って良かった、社会に貢献したいという思いが強くなり苦労とは思いませんでした。
その後は順調に会社を推移させることができ事業所も大阪や沖縄に構えることができました。
確かにこれまでの間には取引先の倒産やリーマンショック、東日本大震災など様々な大波が襲ってきましたが、“ピンチはチャンス”と捉えて生き残るために何をするべきか?念頭に、失敗も糧にしながら社員と共に走ってきたことが今に結びついている気がします。
スピードがモノをいう競争社会。それでも魅力と出会いに溢れた街
―あなたにとって東京はどんな街ですか?
私にとって東京はエキサイティングでチャンスに溢れた街だと思います。食事でも芸術でも世界中から良い物が集まっている場所なので楽しいですよね。
でも良いことだけでなく落とし穴もある街です。そこは自分の力で見極めることが必要です。昔は「見ざる・聞かざる・言わざる」が美徳とされていましたが今では「見るべし・聞くべし・話すべし」なんですよね。
ネットや巷に真偽の情報が溢れる現代だからこそ、しっかりと自分の目でみて、相手の話もしっかり聞いた上で、自分の経験と倫理を通して精査をし、そして自分の思いを伝えないといけないと思うんですよね。
都会はスピード感をもって仕事をしないと競争に負けてしまいます。それだけライバルも多いわけです。
沖縄の場合は市場が狭く首都圏から仕事が流れてくる決まった下請け構造が成り立っているので仕事を奪いとるという競争原理が生まれにくい。
東京は競争社会なのでスピード感を持ってやらないと案件すらもらえないんですよね。この街では簡単に流されてしまうので積極的に動くことが必要です。
一方で全国から色んな人達が集まる分、出会いに溢れた場所でもあります。
私は経営者としてずっと奮闘している間、地元の沖縄の人達とあまりお仕事をする機会も少なく、あまり故郷を意識する事はありませんでしたが、ある時沖縄の新聞社の取材をきっかけに、同じ様に東京で頑張るウチナーンチュとの繋がりが一気に広がりました。
そこから心に眠っていたウチナーンチュとしてのスピリットが燃え出して故郷に何か恩返しができないか?という思いから、県出身のIT関連企業経営者を主体とした関東沖縄IT協議会の発足に関わり、企業誘致や県出身学生の雇用などを加速させました。
また小さな離島を抱える八重山出身者として石垣出身の第7代早稲田大学総長、大濱信泉先生の『生まれた場所によって人生が左右されてはならない』という教えの元、離島の子供達に教育や体験機会を提供するNPO法人「おきなわ離島応援団」を立ち上げたほか、WUB(世界ウチナーンチュビジネスアソシエーション)東京会長(現在は顧問)なども歴任しました。
こういった沖縄と本土を繋ぎたいという思いは年々強くなっています。
―今後の目標を教えてください。
今後はさらに沖縄出身の社員を増やしていき50名の社員規模を目指します。また関東沖縄IT協議会の副会長としても、沖縄との繋がりをさらに強固にしたいですね。
あと個人的には死ぬまでに本を3冊出したいです。私の経験から学んだことを若い人達へのメッセージとして発信できたらなと考えています。
ゼロからイチにする行動を
―最後に沖縄の若者にメッセージをお願いします。
大事な事は「夢」を持ち続けること。そしてその夢に向かって努力する事から全ては始まります。
その夢は私みたいに東京で叶えられるかもしれないし、または別の場所にあるかもしれない。夢を叶えるために必要な事は何か?情報を集め、分からない事は恐れずにどんどん人に聞いてください。
知らないから知っているに。0から1にする事を心がけてください。そうすれば出来る事、やりたい事の選択肢が格段に増えていきます。
私は今でも決して成功しているとは思いません。これまでに沢山の失敗があり時には人に騙されることもありました。でもその時には必ず『全ての事には意味がある』と考え、 失敗から学ぶ姿勢を崩しませんでした。
勿論、運、不運もありますが、得てして失敗の理由は自分側にある事が多いんですね。ならば失敗を繰り返さないためにはどうすべきかを考えたほうが前に進めます。
過ぎ去った時間は取り返すことができません。より良い未来にする為にも是非、“今”を全力で生きてください。何事もネバーギブアップの精神で取り組めば必ず道は開けます!
皆さんの人生がより輝くものとなりますように。
今井恒子(いまい・つねこ)
1957年 石垣島新川生まれ。八重山高校を卒業後、貿易会社でテレックスオペレーターとして勤務しながら、昭和女子短大英文科を卒業。コンピューター関連会社に勤務したのち、2001年にIT関連ソフトウェア会社「フロッサ」を設立。WUB東京会長、関東沖縄IT協議会副会長など、沖縄と本土、世界をつなぐ活動もおこなっている。12年に半生を記した「ウミンチュの娘」(角川書店)を出版。旧姓は上原。
今井さん、お話ありがとうございました!
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