東京にはリアルに感性を磨く機会とチャレンジできる環境があります。
そう語るのは、WEB広告の営業・運用に関わるクリエイティブ・ディレクターとして活躍する比嘉紗野乃(ひが・さやの)さん(中城村出身)。
中部商業バレー部で鍛えられた学生時代。そして上京してからの苦しい逆境を乗り越えてWEB業界で生きる道を見つけるまで。
その根底にある「逃げない」「決めたことはやりとげる」比嘉さんのそんな強さが伝わるインタビューとなりました。
(インタビュー日:2023年5月)
<ご案内>
バレーを通じて自分を磨いた学生時代
ー現在のお仕事について教えてください。
ベンチャー企業やスタートアップ企業のインターネット広告やデジタルマーケティングを行っている会社で、クリエイティブ・ディレクターをしています。
ー幼少期や学生時代はどのようなことをしていましたか?
うーまくー(わんぱく娘)で、ケガも絶えない感じでした(笑)。小さいときから頑固でやりたいことはやりたいっていう感じの子で。チャレンジさせてくれる環境もありましたね。
小学校3年生からバレーボールを始めて県大会で優勝して、高校時代は中部商業高校で春高バレーにも2年連続で出場しました。
ただ当初高校時代はバレー部に入るつもりは全然なかったんです。小学校時代に一緒にやっていたメンバーが中部商業に集まっていて、いやいやながらに結果的には引っ張られて入部した感じでした。
入部するのに抵抗があったのは自分の性格に起因していて。自分が選択したものに対して逃げるのが嫌で中途半端にできないんです。
中部商業のバレー部は全国大会の常連で厳しい環境なのが分かっていたので、半端な気持ちでは入れなかったんです。
ただ入った以上、自分が選択したものに対して、逃げるのが嫌だったので全力でやり切りました。
自分から望んだわけではないですが、結果的に逃げれない環境に身を置いていました。そこで責任感が身についたのが今に活きていますね。
中部商業には宇地原徳仁監督っていうめちゃくちゃ有名な先生がいて、先生の鞄持ちをしていたのもいい経験になりました。
どこに行くにも先生の鞄を持って同行するんですが、それがすごく嫌だったんですよ(笑)。ただその際に選手としてではない色々な経験ができて学ぶことも多かったです。忍耐力もそこで鍛えられました(笑)。
上京して仕事と人間関係の厳しさを知る
ー上京のきっかけは?
沖縄で医療事務として病院で働いていたとき、システムエンジニアの仕事に触れたことがきっかけでした。
その病院が電子カルテに切り替わるタイミングで東京のシステム導入会社からエンジニアの方たちが派遣されてきて対応していたんですが、それを見て「すごいな!!」ってめっちゃ思ったんです。
そこで出会ったエンジニアさんたちの働き方や働きがい、やりがいなどを見聞きしていて「もう絶対東京に行きたい」って思いました。
そこで出会ったエンジニアさんたちを頼って東京旅行もしたりしました。ただすぐに上京したわけではなくて、病院勤務から上京するまでにワンクッションありました。
その間に中城の役場に空きがあるよって話が出て、同じ契約社員なんですが病院より待遇が良かったので役場の福祉課に転職しました。
ただ福祉課の業務に携わる中で「この仕事、私じゃなくてもできるよね」って気持ちが強くなって、一年経たずに退職していよいよ決意して上京しました。
ただ転職先についてIT関係は選択肢になくて「東京にいけたら何でもよい」って感じでした。出会った方たちから、知らないことを教えてもらえる環境にあこがれがありましたね。上京して色々な刺激に触れたいって感じでした。
そこで見つけたのが寮付き居酒屋の正社員でした。いざ上京しようとした時、お金がなかったので安易な考えなんですが、上京するための手段として使っちゃったって感じでした。
ー憧れの東京生活はどうでしたか?
最初の職場がなかなかブラックでした。給与明細が無くて給与が振り込まれるまでいくらか分からないんです。
寮付きの職場でしたが寮費がいくらひかれているのかもわからなくて「これはおかしい」って不満がありました。
寮付きなので生活は出来ました。振り込まれる給与は沖縄時代と変わらないんですが労働時間がとにかく長かったです。社員だったので朝から出勤して夜の12時手前まで働いていました。
お昼はその居酒屋で食べて、夕方まで2時間ぐらい休んで、夜の営業が始まるって感じで。憧れていた東京生活とのギャップがすごすぎて、やりがいも感じられず刺激も無くてどんどん嫌気がさしていきました。
そのお店にたまたま沖縄出身で同い年の子がいて、一緒に頑張ろうって励ましあいながら頑張っていましたが、その子も限界になって「辞めたい」となり、結果的に2人とも辞めちゃいました。
辞めると住むところもなくなるので、そこで初めて親にも相談しました。親からは「沖縄に帰ってこい」って言われたんですが、上京して1年ほどでまだ何も成し遂げていなくて「これで帰ったら情けない」って気持ちが強くて、30歳までには帰るからと親を説得して東京に残りました。
当時おばさんが横浜に住んでいたので一回そこに避難させてもらいました。それがなかったら今のキャリアは無かったので、本当に有難かったです。
次の職場を探すにあたり医療系で自分に出来そうな仕事も考えましたが、当時24歳で若さもあり違うことにチャレンジしたいと思って、女性専用フィットネスのカーブスにトレーナーとして転職しました。
ただそこが結構な試練でした。会員もトレーナーも女性のみの女社会で、人間関係にかなり苦労しました。
ーそこで沖縄に帰ろうって気持ちにはならなかったんですか?
今の仕事を辞めたいって気持ちはありましたが、沖縄に帰るっていう選択はなかったですね。
さすがに両親には「もうお前には無理だよ。帰ってこい」と言われるかと思いましたが、私がおばさんの家にいる安心感があったのか、何も言ってこなかったんです。
自分としては30歳までは東京にいたいっていう思いがあったので、 次の仕事探そうみたいな感じでした。仕事を辞めてそのままおばさん家に居候するのも失礼だと思って、次の転職のタイミングでおばさん家から独立できるようにお金を貯めて出ました。
今までは1人で生活できる基盤がなかったんですけど、やっと独り立ち出来た感じです。
ー初の一人暮らしで職場も変わって、慣れるのに大変じゃなかったですか?
次の職場は整形外科の看護助手だったんですが、すごくホーム感がありました。先生も含めて働いている人たちがすごく良くしてくれて受け入れてくれました。
中でも看護師さんの一人が鹿児島出身で感覚がすごく近くて、おねえちゃんみたいな感じで可愛がってくれたんです。
とても良い環境だったんですが、2年くらい経った頃から沖縄に帰るためのキャリアについて考えだしました。このままここで働いていて経験は積めますが、沖縄に帰ったらまた1から職場探しになるんですよ。
先生からは「この仕事向いているから、今からでも遅くないから看護学校に行って資格を取りなさい」ってアドバイスされていました。当時26歳だったので、そこから4年かけて学校に行く選択肢は時間的にも金銭的にも無かったですね。
WEB業界に生きる道を見出す
そんな中、HPの管理をしている会社とのやりとりが私の中で転機になりました。
「GWにクリニックをお休みするので、HPに記載しといてください」ってお願いしたときに「じゃあ3営業ぐらいでやっときます」って感じで即対応じゃなかったんです。
それで毎年保守管理費用が掛かっていることを知ったときに「どういう仕組みか分からないけど、書くだけじゃん。クリニックのHP、私が運用出来るんじゃない?」って思って、そこからHPやLPのWEBデザインに興味が湧きました。
WEBデザイナーだったら手に職系でパソコンさえあれば仕事できる。「これだ!!」って感じでした。
ただWEBデザイナーの資格を持っていない状態だったので「沖縄に帰れる」っていう観点から職場を探していたら今の会社と出会いました。
その時の募集職種は事務職だったんですが「将来WEBデザインがやりたいんです」と面接で伝えたら「入社した後にどんどんチャレンジしていいよ」って言ってくれて、それで決めました。
まずは東京支社に入ってゆくゆくは沖縄本社に移動するだけで、沖縄に帰れるし仕事も失わない、自分の希望にピッタリだって感じでした。
その後、入社が決まったのと同時にデジタルハリウッドっていうWEBデザインが学べる専門学校にも入学して本気で学びました。そこでイラストレーターやフォトショップの使い方も学んでWEBデザインの資格を取っていたのが今に活きています。
以前勤めていたクリニックの先生との約束が行動力の源泉になりましたね。「私が将来WEBデザイナーになったらクリニックのサイト制作は私がやるから」って伝えていたんです。そのためにもちゃんと勉強しなきゃって気持ちでしたね。
ー最初は事務としての採用だったんですね。そこからどういう経緯で今の職種に移ったんですか?
パソコン作業には自信があったので事務作業をどんどん効率的にこなしていました。私自身、仕組み化することが得意で事務作業のマニュアルを作って誰でも出来るようにしていったんです。
「自分でやる必要がないものは、自分じゃなくても出来るようにしたい」という考えで取り組んでいました。それで時間が出来たので事務だけでは飽き足らず、「もっと仕事くれ」って他の部署にどんどん顔出していたんです。
その際に「私、WEBデザインもやってます」っていう話をしていたら、たまたま営業部で大学のバナー制作の案件があって、「私、やります!」って手を挙げたのが最初の仕事でした。
業務経験はなかったんですがフォトショップやイラストレーターが使えたのでチャレンジさせてもらいました。
ちょうどそのタイミングで東京支社として広告事業をやるという方針が出て、広告をやるうえでクリエイティブが必要になり徐々に案件に参画させていただいて、今に至るという感じです。入社した際に考えていた職種に移って、WEBデザインの仕事が出来ることがすごく嬉しかったです。
それからは自分の中でやったことがないことにどんどんチャレンジさせていただき、常に何か新しい発見がある仕事に携われてとても嬉しかったです。
私は本当に広告が好きで、まるで生き物を扱ってるみたいなんですよ。自分がやったことに対して反応があるんです。
管理画面上で日々数字が変わっていって、手をかけたらその分成果が出る。成果が出るとお客様の売り上げも上がって喜んでくてもっと広告費を出してくれて、スケールしていくのが楽しくてドハマりしました。
ー今のスキルを持って沖縄に帰る選択肢もあったと聞きましたが、あえて東京に残る選択をしたのはなぜですか?
ありがたいことに事業部長として沖縄本社に異動する提案をうけたんですが、私がそれをやる大義名分が見いだせなくて断りました(笑)。
そこで提示された職務が「それ、私じゃなくても良くない?私は東京でもっと広告に携わりたい」って持ち前の頑固さが出ました。
WEBマーケティングはまだまだ知らない世界があって「もっと上を目指せしたい、成長したい」という思いが今でも強いですね。
どこまで目指していくか決めてないんですけど、自分が納得できるまでずっとチャレンジしてたいです。
「チャレンジはもういいかな」って気持ちになったら 今までの知識を全部持って沖縄に帰ろうと考えています。これまでやってきたことや見てきたことは伝えられるかなと思っています。
東京は多くの出会いで感性が磨かれる場所
ー比嘉さんにとって東京はどんな場所ですか?
東京は自分がいる場所というか、いたい場所になっていて、すごく楽しい場所ですね。そう思える一番の要因は出会いですね。
東京は私同様、地方から上京している人も多くて自分と感覚が近い人や地元が近い人もいっぱいいるし、なんなら沖縄の人もいっぱいいるんですよ。
東京に出てきて感じたことは、沖縄ブランドが確立されていること。沖縄出身というだけで胸を張れますね。
ーこれから上京してチャレンジしたいと考えている島の後輩たちにメッセージをお願いします。
私自身、上京して人生が変わりました。東京にはチャレンジできる環境があります。なので、興味があることに関しては、恐れずに挑戦してほしいですね。
今はネットやSNSで情報は拾えるんですけど、そこにある事実に対する感性を磨くためにはやはり経験が必要です。
受け取る側の考え方や感性、経験にって同じ情報にアクセスしていても捉え方が変わります。
あと一流の仕事を身近に感じられるというのも東京ならではの良さですね。私の職種の話になりますが、東京には優秀なマーケターがたくさんいて、それこそテレビに出るような超有名人もいます。
その人たちと交流する機会も東京だと多いです。その人たちのセミナーに参加したりもするんですが「もう私、マーケターって名乗れない!恥ずかしい」って思うぐらいレベルの差を感じることが多々あります。
比嘉紗野乃(ひが・さやの)
沖縄県中城村出身。総合病院での勤務、村役場での勤務を経て、自分がやりがいをもてる仕事やいろんな人との出会いを求めて上京。その後、沖縄の会社であるプロトソリューションで勤務。東京支社の営業部門でマーケティング領域や営業サポートを行なっている。
比嘉さん、お話ありがとうございました!
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