インタビュー

「沖縄が好きだからこそ出てみたほうが良い」兼島瞬さんの仕事論(IT会社)

兼島俊さんの仕事論

そう語るのは、都内のIT会社「MCS株式会社」にてSI事業部課長をされている兼島俊さん。

なりゆきで始まった東京でのホームレス生活、沖縄へのUターン、再上京からパソコンすら未経験で飛び込んだIT業界。

「人生の節々で沖縄の縁に助けられてきました」というそのキャリアと仕事論、沖縄の若者へのメッセージを教えていただきました。

(更新日:2018年8月21日)

 

<ご案内>

 

お仕事はIT営業、採用

兼島俊さん

 

―現在のお仕事について

IT会社で主に営業や採用活動の仕事をしています。採用活動では月に2、3回東京―沖縄を往復し採用活動をしています。

地元に帰ると取引先を開拓、異業種で懇親会主催し、東京や沖縄県内就職希望者を見つけて仕事の楽しさを知ってもらった上で弊社に就職してもらっています。

私が入社してから沖縄出身者が25人くらいは入社したと思います。沖縄には支社もできてそこには17人が働いています。

 

インド旅行帰りに東京観光からホームレスへ、人生について熟考した熱い時代

―上京のきっかけは

インド放浪から関西空港に戻ると、せっかく本土に着いたのだから「観光がてら東京を見てみよう」というくらいの軽い気持ちで上京しようと決め、しかし東京までのバス代が足りなく友人に借りました。

東京へ到着したときは所持金が700円しかなく友人宅に泊まったり転々としていましたが、ネットカフェに泊まったり野宿をしたりしたことも。

新宿で段ボールや包装材に使う緩衝材にくるまって寝たこともあります。ホームレスには縄張りがあって、「そこ、どけ」などと言われたこともありました。

仕事はと言えば最初は企業の事務所移転や商品のピッキングなどの日雇い仕事をやりながら食いつなぎました。「サルバトーレクオモ」という有名レストランでピザ窯を作るイタリア人職人と何故か仕事をすることになったこともありました。

そうこうしている間、以前沖縄で知り合った女の子が東京に住んでいるのを思い出し連絡を取りました。その子の実家に呼ばれて飲んでいると私がホームレスだと知りドン引き。

「娘の知り合いだったら安く貸してやる」とその子のお父さんが京王線の柴崎駅の近くにある木造アパートに月2万円の家賃で部屋を貸してくれると言ってもらい、ホームレス生活は終わりました。

当時アニメーターをやっていた中学時代の後輩とルームシェアをしました。

 

タコライス屋を始めて生涯の伴侶と会う。沖縄に戻り自分で焼鳥屋を経営する。

―その後仕事は何をされていたのですか。

日雇いは2年やっていました。ある時「あなた沖縄の人だからタコライスをつくれるでしょ」と言われ、汐留のタコライスを扱っているカフェの店員になりました。

その店の向かいには弁当屋さんがあって気になる女の子が働いていました。それが今の私の妻です。

それから付き合い始めて2年目、2011年3月11日の東日本大震災が起きました。当時、妻との結婚と妊娠の話が出ていました。震災で不安になる妻を連れて沖縄に帰り6月に入籍しました。

沖縄に戻りバーテンでもやろうかとも思いましたが、子どもが生まれるので自分でお店を経営しようと決めました。

豊見城市の方で市場の一角を借りてバラックに近い屋根がタープだけの焼鳥屋を起業、徐々に業績が伸び始め家族を養えるようになりました。

そして半年が過ぎたあたり、妻のご両親が心配になって様子を見に来た時「そんな仕事辞めて、うちで働きなさい」ということになって、大げんかになりました。

チェーン展開も考えていて一緒にやりたいと言うメンバーも集まっていたのですが、私の両親が離婚していたこともあり家族が離れ離れになることは避けたかったため、焼鳥屋は売り払い妻子を伴って上京することに決めました。

 

再び上京、持ち前のポジティブ思考と沖縄の縁でステップアップ

―再び東京に出てきてどんな職を得たのですか

一度渋谷にある鍋料理屋の店長に任されましたが、帰りも遅く妻からは「夜に帰ってこれる職に就いてほしい」と。

近所のハローワークで4~5件求人情報をプリントアウトしてきたのでIT会社や運送業、営業職などを全部受けて全部合格しました。

その中からITを選んだ理由が「やった事がないから」です。パソコンのスキルがあると面接で言ったらエンジニアとして採用されましたが実はパソコンをほぼ触ったこともなくパソコンも面接終わって買いに行きました。

完全なハッタリですが命がけでやればなんとかなると思うのが信条なので採用が決まった日から頑張りましたがすぐにバレてしまい、営業のサポートに配属されました。

雇ってくれた会社に恩を返したいと一生懸命営業をかけていたら、ある社長の奥さんがたまたま沖縄出身の人でトントンと商談が進み、2日目にして案件が取れてしまいました。

 

求めると必ずチャンスのある街、東京

―東京はどんな場所ですか

いろんな方と出会えるのが東京の良いところです。今勤めているMCS株式会社に入ったきっかけは前職のときに同業他社の交流会で知り合った事でした。

九段下のエスカレータ―で偶然社長とすれ違ったりしました。その翌日に会おうとなり「よければうちで働いてみたら」と言って頂きました。

その前に転職サイトに登録して何社か他のところも受けて自信を付けてから今の会社に入社することになりました。

「得意なことは人と会って話すことです」と話したら「じゃあそれを生かせばいい」とも言われました。

今では部門の収支をチェックしながら改善提案をするというような管理職も任されました。そういう偶然の出会いがあるのが東京ですね。

いろいろな地域からいろいろな人が来て、こうした人々と出会うことができるのも東京の魅力です。

それに情報が回ってくるのが早い。私の好きなプロレスも都内であればすぐに観に行けるし、アイドル好きな人であればコンサートやイベントで直にアイドルと会うことができる。沖縄だとそういう機会は少ないですからね。

上の世代の方たちは沖縄出身だと差別されて苦労したなどという話も伺っていたので怖い気持ちもありました。しかし私の場合ですが沖縄出身であるデメリットは東京にいて感じたことはありません。

むしろタコライスにしても営業先にしても、ターニングポイントで不思議と沖縄の縁に助けられています。これも上の世代の人たちが作ってくれた縁なのかと思うと、繋がっているのを感じます。

 

視野をもっと広く! 自分の可能性を信じて! 意識が変わる

―沖縄の若者たちへのメッセージを

東京は楽しいところでもあり厳しいところでもある。時間は守るものだという当たり前のことも学べます。それでも確実に自分を見つめ直し成長できる場所です。

食べたことが無いのに嫌いとかいう前に、食べてみる!この話と一緒で興味のある事は全てやってみた方がいい。「試しにやってみるか」くらいの気持ちで良いと思います。

地元のことが好きなら一度沖縄県外に出て就職してみたほうがいい。まずは沖縄を外から見る、言葉は通じるが商習慣や生活習慣も違う、初めて沖縄を理解するための基準が生まれます。

それがわかると沖縄がもっと好きになり「沖縄のために何かしたい」と思うようになるはずです。

沖縄にいた頃、仕事は与えられるものと思っていた時もありました。しかし東京へ出て、もっとこの人と関わっていこうなどと思うようになり、働くことに対する意識が変わってきました。

半年でもいいから一度沖縄外の空気を吸いに東京で働いて、沖縄と東京の良いところと勿体ないところを知ってほしいと思います。

 

兼島俊さん
兼島俊(かねしま・しゅん)

1978年沖縄市生まれ 6歳で両親の離婚で浦添に転校、高校卒業後プロレスラーを目指し応募するも不合格。21歳で家を追い出され友人達とバンドを始める。アパレルやバーテン、飲食店と様々な職種を経験し、28歳の時にバンドを電撃休止しインドへ放浪しにいく。帰国後、そのまま上京しホームレスから日雇いなどを経てカフェ店員に。2011年、結婚を機に沖縄へ帰郷するも数か月で再度上京。転職を経て現職。沖縄では営業の傍ら昔の友人たちを巻き込みバンド活動も再開した。歳を重ねるごとにどんどん楽しくなっています。

 

平良英之

兼島さん、お話ありがとうございました!

兼島さんにお仕事のご相談・ご提案がある方は、東京うちなんちゅ会まで気軽にお問い合わせください。

 

 

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