「念願は自分を導いてくれる。継続は力なり」
そう語るのは、中野チャンプルーフェスタ実行委員会副会長、中野区エイサー連合会代表を務める上原慶さん(沖縄市出身)です。
かつて美術の世界を志し、ふとしたきっかけで中野で出会ったエイサー。
そして「中野で沖縄の魂を育んできた方々の思いを後世に繋げていく」ことをスクブン(役割)と信じるに至るまで。
東京への思い、沖縄への思いなども教えていただきました。
<ご案内>
美術の世界を志す日々
―沖縄ではどんな日々を過ごされましたか?
子供の頃に沖縄出身のなかいま強さんが手掛けた野球ギャグ漫画「わたるがぴゅん!」にはまりまして、よくマネして漫画を描いては友達に見せていました。
「うまいね」とほめられるのが嬉しくて、将来は漫画家になりたいなと漠然と思うようになりました。
中学、高校と進むにつれてイラストデザインに興味を持つようになったのですが、当時のコザ高校は美術部がなくて、調べて見つけた那覇の絵画教室に週2回、沖縄市から通っていました。
そこで出会った真喜志勉先生がとてもユニークな方で、美術の基礎は勿論ですが、それ以上に「どう人生を楽しむか」という事を教えていただきました。
―進路はどのようにして決めましたか?
美術の見識を深めたかったので、国立の東京藝術大学を目指しました。
両親は「将来、それで飯は食えないよ」と芸術分野に進むことの難しさを話してくれましたが、最終的には私の意思を尊重して充分すぎるサポートをしてくれました。
受験した当時は倍率40倍のデザイン科。2浪~3浪が当たり前の世界。現役では合格できず東京に出て浪人生活を送ることになり、ここで1つ大きな壁というか、現実にぶちあたりました。
予備校で出会ったのは全国から集まった絵の表現を突き詰めようとしている人ばかり。好きというレベルでなく、絵で自分をどう表現するかという姿勢と覚悟に驚かされました。
沖縄では絵を描いているだけでも「すごい」と言われて、何か自分が特別な事をやっている気持ちになって、それだけで満足していた自分自身と彼らとの差が歴然とありました。
東京では高い意識とモチベーションを持った人間が集まって、東京藝大という狭き門を争うわけです。
そこから自分なりに模索して浪人2年目。当時出来たばかりの先端芸術表現科に志望を絞りました。そこはクリエイターと商業デザインのちょうど中間のような立ち位置でとても興味がありました。
一次試験の基礎デッサン、二次試験の色彩や立体の感性を図る試験をパスして、最終面接まで残ることができました。
もうここまで来れば合格目前だったのですが、残った10人のうち合格者は7人。漏れた3人の1人になってしまいました。
面接での合否は教授との相性や、育てたい・引き継いでもらいたい人材を選ぶ試験だと思いますので、私は合わない、または魅力が足りないということがあったのでしょうね。
親は3浪も許してくれましたが、若いころの私は通過点でしかない結果を挫折と決めつけて逃げるように受験を終えました。
中野でエイサーと出会う
―その後については
とりあえず生活するためには仕事ですよね。アパレルにも興味があったので、ユニクロを展開するファーストリテイリングに契約社員として働きはじめました。
日頃の業務は販売や在庫管理が中心。仕事と生活は出来ていましたが、休みに自分を磨くためのデザイン制作することもなく、環境に甘えて惰性で生きていたと思います。
でもそんな中でも日々の楽しみはありました。東京は駅ごとに街の雰囲気が変わり、皇居や寺社仏閣など、特に近代史のロマン薫る史跡が今も多く残ります。歴史にも興味があった自分はただ巡るだけでも心が踊りますね。
美輪明宏や三島由紀夫など数々の文化人が通っていた新宿三丁目のバー「どん底」にもよく行きました。こういう楽しみは沖縄の琉球史跡を巡るものとはまた違う楽しみがあります。
街歩きのおかげで、現在の都立九段高校がある場所は関東大震災前、最後の琉球国王・尚泰王が住んでいたなども知ることができ、そのおかげもあり沖縄と東京、戦前・戦後近代史に興味を持つことができたのは今の活動につながっているように思います。
―今につながる転機となった出来事について教えてください。
上京して1年目の夏だったと思います。新宿の歩行者天国のど真ん中で三線を演奏している男性の方がいて、懐かしさもあって定期的に通って演奏を聞いていました。
次第に顔なじみになって話をするようになり、その方が中野で三線教室や沖縄料理店をされていることを知りました。
働くようになってからそのことも忘れていましたが、22歳になって目標を失っていた時にふと思い出し、行ってみようと思いました。
休みの日に降りた中野駅。目の前には街のシンボルでもある複合施設の中野サンプラザがあります。その前に差し掛かった時に懐かしい太鼓と音楽が聞こえてきました。
それはエイサーでした。
足を止めて観ていると、僕が子供の頃に習っていた地元のエイサーとスタイルが全く違う。念仏踊りを入れて独自に進化させたというか、それが日本らしさも混ざってカッコ良かったんです。
聞けば「東京エイサーシンカ」という団体で、当時その代表を務めていたのが、金城吉春さんという方でした。
南風原町出身の金城さんは就職で上京されたのちに、中野で「あしびなー」という沖縄料理店を経営する傍ら、沖縄民謡やエイサーの普及活動にも力を入れている方で、すぐに意気投合して自分もメンバーに入らせてもらいました。
金城さんと飲みながら語るうちに、1970年代に沖縄から集団就職で上京した若者達の居場所となる「中野区・沖縄郷土の家」(1970年開設~1984年閉鎖)が開設されたことで、多くの県出身者が中野に集まるようになり、沖縄料理店やエイサー団体などが増えたこと。金城さんがアイヌの方々との出会いを通して、交流を深める「チャランケ祭」を主催していることなど、私が知らない多くの“中野のオキナワ”を教わることができました。
もっと知りたいと思った僕は平日休みだった販売店の仕事を辞めて、週末休みのアパレル会社に転職し、よりエイサー活動に勤しむようになりました。
「地域とつながる」エイサー活動へ
―でも、その後にも岐路があったようですね。
僕が生まれ育った地元ではエイサーは「地域貢献」という考えがありましたが、当時在籍した団体では「沖縄コミュニティのみ」で楽しんでいるように感じました。
歴史を知れば先輩方が「沖縄コミュニティ」を創り守り続けてきたおかげで私たちの世代につながる事は分かるのですが、当時はまだまだ知識不足だった自分は金城さんに「中野地域の人と挨拶さえできていない、もっと地域のイベントに顔を出して、絆を深めるべきでは」と意見しました。
金城さんはとてもフラットな方で僕の意見に共感してくれましたが、周囲の人達の反対もあって次第にその「沖縄コミュニティ」とは距離ができてしまい、そこで2005年に仲間とともに「東京中野真南風エイサー」という新団体を立ち上げ、私が代表になりました。
それからは中野のお祭りや商店街のイベントに積極的に参加させてもらい、エイサーを披露して地域の皆さんに喜んでもらえたことが嬉しかったですね。
徐々に僕らの存在が知られるようになり、その年に始まった「中野チャンプルーフェスタ」への参加をきっかけに、エイサーが中野区認定の観光資源にもなりました。
その後は実行委員を経て副会長になり、中野区の商店街チャレンジ事業やシティプロモーション助成事業等、行政からも助けをいただきながらフェスだけでなく、「中野のオキナワ」の歴史を掘り起こす活動にも力を入れています。
調べていくうちに「郷土の家」は沖縄県以外の道府県もあったそうで、中野区は特に沖縄と新潟出身者が多く活動も活発だったそうです。
当時の事を知っている人も東京を離れたり他界されたりと少なくなっているので取材も非常に苦労が多いですが、辿りついた話はとても貴重なものばかり。
若い世代にも伝えるべくYouTubeでも発信しています。
「中野のオキナワ」を語り継ぐ
―今後の目標はありますか?
エイサーの美しさ、楽しさ、多様性を踊りだけでなく色んな形で後世に伝えていくことですね。
次世代のエイサーの担い手が少ないのは事実ですし、コロナ禍もあってなかなか思うような活動が出来ないジレンマもあります。
今の主流は「太鼓エイサー」ですが、エイサーを存続させるためであれば原点である「多様な表現方法があっていい」を広める必要があると思っています。
そもそもエイサーは各地域でまったく踊りやフォーメーションが異なります。「太鼓エイサー」が唯一の答えでもありません。
今後、例えば地謡(三線奏者)を踊り手よりも全面に出したり、太鼓はなく女の子の手踊りだけでやったりしてもいい。
それも「エイサー」だよと創意工夫をする一方で、“形なし”では困りますから、きちんと沖縄エイサーの魂や軸を沖縄の方から正しく学び続けて思いを曲げることなく伝えていく。
やることは沢山ありますが、考えるだけでワクワクしますね。
踊り以外の伝え方としてはワークショップを開催していきます。「ダンボールでエイサー締め太鼓を作ろう」という回は非常に好評で、ウチナーンチュではなく東京出身で三線奏者として活躍している伊藤淳さんのアイディアから生まれました。
このアイディアはのちに沖縄の方が持ち帰り商品化されるほどになりました。
残念ながら僕がお世話になった金城吉春さんは21年9月に亡くなられてしまいましたが、生前、金城さんは活動を通して「うちなーんちゅの居場所を作りたい」と仰っていました。
1970年に自宅を開放し「沖縄郷土の家」としてくれた故・金城唯温さん・静子さんご夫妻もそうだったと思いますが、その為には根気強く、長い視点での取り組みが必要です。
「念願は人格を決定す。継続は力なり」
―最後に読者にメッセージをお願いします。
私自身、祭り中心の生活にするべく仕事を選んでしまいましたが、現在は学生時代から勉強してきたデザイン関係の仕事で生計を立てられています。
「沖縄と祭りとデザイン」という妙な組合せは自分らしく選択してきたのだなと感じています。
上京して東京で生活を送る中で多くの才能ある人達が途中で夢を諦め辞めていくところを何度も目にしました。今、改めて思うのはそれぞれの歩み方で、継続することが大切だということです。
私は東京に出たことで選択肢を広げることができ、ウチナーチュらしさを認識でき、人とは違うアプローチで人生を切り開くことができました。
東京は色んな人がいるのが当たり前であり、多様性、寛容さがある場所。
是非、色々な人と出会い、物事を体験することで、視野や価値観を広げてもらいたいです。
上原慶(うえはら・けい)
1980年2月22日 沖縄市生まれ。コザ高校卒業後に上京。浪人生活を経て中野でエイサーと出会う。「東京エイサーシンカ」所属を経て2005年に「東京中野真南風エイサー」を旗揚げ。第1回「中野チャンプルーフェスタ」への参加を機に、中野区内の多くの祭りやイベントに参加。現在ではオリジナルウエアブランド「FROM ZERO ONE」の代表を務める傍ら、中野チャンプルーフェスタ実行委員会副会長、中野区エイサー連合会代表。「中野のオキナワを語り継ぐ」活動の代表として多忙な日々を送る。
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上原さん、お話ありがとうございました!
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